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時代小説の名手、門井慶喜さんがこれまでにない分野に挑戦した意欲作『天下の値段 享保のデリバティブ』(文藝春秋)。江戸時代の大坂堂島米市場で行われた「世界初の組織的な先物取引」をなぜ描こうと思ったのか。当時の商人たちは何を考え、ビジネスをどのように捉えていたのか。そこには、驚くほど現代と共通する感性や考え方が存在したという。

「世界初の先物取引所」を舞台にした時代小説であり経済小説

「俺たち(大坂商人)は、なぜ帳合米をやるのか?」

本書では、主人公である垓太(がいた)、そして時の将軍である徳川吉宗が同じ問いを自分に投げかけるシーンが何度も描かれる。「帳合米(ちょうあいまい)」とは、江戸時代の大坂堂島米市場で行われていた、将来の米の価格を決めて売買する先物取引(デリバティブ)の一種だ。 しかし実物の米はどこにもなく、あくまで帳簿上での取引である。10日に1度は消合日(けしあいび)という、いわゆる中間決算日を設け、そこで精算をして儲けたり損をしたりするのだ。このような高度な金融取引が江戸時代の日本で行われていたというのは驚きでしかなく、実際、世界初の組織的な先物取引所だったとされている。

さて、冒頭の問いを現代風に言い換えると「自分たちはなぜ投資をするのか?」ということになるだろうか(少し違うかもしれないが、あくまで例えとして)。大坂商人である垓太も一度は「金儲けのため」と考える。実際に米価の変動リスクを回避するため米価の基準をつくろうと始めた帳合米だが、投機的な発想から「金儲け」を目的にする商人も少なくなかった。しかし、お金を稼ぐだけなら他の商売でもばくちでもなんでもいいはず。米市場にこだわる必要はないのに、なぜ……? 

その答えは本書を読んでのお楽しみとするが、この問い自体は江戸時代も現代も変わらない、私たち一人ひとりが考え続けるべきテーマではないだろうか。

本書はこのように江戸時代の大坂堂島米市場を舞台に繰り広げられた米の先物取引と、大坂商人と幕府が米価を巡って争った頭脳戦を描いた、史実に基づいた経済小説だ。著者の門井慶喜さんは直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』(講談社)などで知られる、近現代史をテーマにした歴史小説を多く著している作家である。本書も歴史小説であることは間違いないが、同時に壮大な「経済小説」でもある。

なぜ、帳合米などという社会経済をテーマに扱うことにしたのか。門井さんは、本書の監修にも携わった神戸大学経済経営研究所の高槻泰郎氏の著書『大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書)を読んだことがきっかけ、と話す。

「江戸時代の堂島で世界初の先物取引所が実在したということを知り、これは面白い、いつか書いてみたいと密かに構想を温めていました。ちょうどそのときに文藝春秋の編集者も同じ本を持ってきて、『江戸時代の堂島米市場が面白いですよ』と言ってきたので、『書くなら今しかない!』と思い立ったんです」

まるで読者自身が米市場にいるかのような臨場感が

しかし、いきなり「帳合米」と聞かされても、意味が分かる人は少ないだろう。概念や仕組みをくどくどと説明されても、読者がついていけないかもしれない。門井さんがこれまで執筆してきた時代小説とはまた違った難しさがあったのではないだろうか。

「それはそうなのですが、私自身は自分を小説家であると同時に、“文章の専門家”でありたいと考えていて、伝えるのが難しいテーマであればあるほど興奮してしまうんです(笑)。営業のプロは売りにくい商材ほど燃えると聞きますが、それと似たようなものでしょう。今回は時代小説をたくさん読んできた人にとってはとっつきにくい経済がテーマで、しかも先物取引なんて特に分かりづらい世界だと思うんです。そこを、どうしたら楽しく読んでもらえるだろうかと、物語の構成や見せ方に頭を悩ませました」

本書では、堂島の米市場で商人たちが怒号を上げながら売り買いしている様子が描かれている。中には手信号で売ったり買ったりをする商人がいたり、市場に横付けされた屋形船で休憩する商人がいたりして、当時の堂島市場の喧騒と空気が臨場感たっぷりに伝わってくる。「堂島は世界初の先物取引市場」と説明されてもピンとこないが、こうした描写を読むことによって、まるで自分がその現場にいるような感覚を覚えた。「体験」によって金融システムを理解させるのは、小説にしかできないことではないだろうか。

執筆するにあたって、膨大な資料を読み込んだという門井さん。当時の文化や人間の考え方にたくさん触れる中で感じたのは、「当時の商人たちの数字や情報に対する感覚は、現代のビジネスパーソンと何ら変わらない」ということだった。

「江戸時代というと、大きな戦争もなくのんびりとした時代と思われているかもしれませんが、当時の商人は本当に忙しい日常を過ごしていました。時間や数字に関する感覚も鋭敏で、分単位、秒単位で動いていたことが分かります。

そして、何よりも情報が重要であるということを理解していました。本の中でも継飛脚(つぎびきゃく)という幕府公用の特急便が登場して垓太たちが焦る場面がありますが、いち早く情報を届けることが商売の行方を左右することを分かっていたんです。信頼性の高い情報をいかに早く手に入れるか、そのスピードにこそ違いはあれど、重要性は現代と何ら変わらなかったと思います」

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『天下の値段 享保のデリバティブ』
門井慶喜 著/文藝春秋/1,980円(税込)

私たちは「モノの価値」について数字にとらわれ過ぎてはいないか

そんな門井さんは、「お金」というものをどのように捉えているのか。この問いに対し、「現代はモノの価値について、表面的な数字にとらわれ過ぎているのではないか」と答える。

「取引というものは原始の時代から物々交換という形で行われてきました。そこに貨幣は介在しなかったけれども、何かと何かを交換するにあたっては相場観が必要ですから、モノの価値や価格的な概念はあったはず。その後、お金の登場によってモノの価値を数値化することができるようになったわけですが、決済の手段は増えても我々の中に“価格感”のようなものは変わらずにあるはずなんです。他人にとってはどうでもいいモノでも、自分にとっては何にも代えられない大切なモノというのは誰でもありますよね。本来モノの価値は円でもドルでもビットコインでもなく、自分の内にある価格感によって決められるべきだと思うのです。

しかし、今はあらゆる数字で表現できてしまうがゆえに、多くの人が自己の価格感よりも、表面の値段にとらわれてしまっている。それによって、本当に自分にとって必要なモノ、大切なモノに対価を支払うということを軽視してしまっているのではないか。それは長い目でみると、決して自分の幸福にはつながらない。私はそんなふうに考えています」

あらゆるものが数値化されていく現代にあって、自分の内なる価格感に従うことは、世間や市場の評価よりも自分の物差しを信じるということであり、言葉でいうほど簡単なことではないだろう。門井さんは「自己をしっかりもたないと、価格の海におぼれてしまう」と表現する。

「自分の内なる声より表面の価格だけを重視していると、自分にとって本当に必要なものが見極められなくなり、結果として手に入れることもできなくなるでしょう。それが私たちにとっては真の意味で『損をする』ということではないかと思います」

こう語る門井さんは、もともと大学職員として働きながら執筆を続けていたが、まだヒット作を出すどころか新人賞も受賞したことがない状態で、退職して専業作家の道を歩み始めた。いわば「明日の米びつ」も考えずに決断したわけだが、それも「自分の物差し」で決めたのだろうか。

「私にとっては、大学職員を続けるよりも、辞めて新人賞を目指したほうが安泰だなと思ったのです。普通の人の感覚とは違うのかもしれませんが、私にとっては作家のほうが安全確実に生活できるという確信がありましたね」

それだけ自分の才能に自信があったのかと聞くと、「自分の筆力に対する一定の信頼、あるいは勘違いはあったと思うが、それよりももっと混沌、漠然とした感覚に従った」と話す。

人生を生きる上で最も大切なのは、お金でも才能でもなく、自分の内なる声に耳を傾け、それを信じる勇気。そんなふうに思わされた。

(取材協力=門井慶喜、構成=田中裕康)