日本の教育は、戦後から一貫して「正解は一つ」を前提にしてきた。だがそれではグローバル化が進む環境では生き残れない。明治大学の小笠原泰教授は「結晶化された固定的知能ではなく、知恵ベースの流動的知能を高めていく必要がある」と警鐘を鳴らす――。

※本稿は、小笠原泰『わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ 時代に先駆け多様なキャリアから学んだ「体験的サバイバル戦略」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/tupungato)

現代のグローバル化を生んだきっかけ

現在のグローバル化は、1989年の「ベルリンの壁」崩壊に象徴されるソ連の解体(1991年)による冷戦の終焉がもたらしたアメリカの覇権の確立に端を発しています。アメリカの覇権の下、国境による制約を解かれた資本が牽引する形で世界のネットワーク化が加速します。冷戦という対立構造が消失したことで、覇権国家の権力に代わり、経済(市場、資本、企業)が政治的不安定を抑制する調整弁として機能したわけです。

車や飛行機、コンテナ輸送など、冷戦以前から進歩を遂げてきた物理的な移動技術に加え、世界を論理的にネットワーク化するインターネットに象徴されるICT(情報通信技術)などデジタル・テクノロジーが、グローバル化をさらに加速させている点が最大の特徴です。

そして、周知のとおり、デジタル・テクノロジーは、もはや国家が独占するモノではなく、個人や企業にも等しく開かれた民主的なモノで、国家に対し、市場・資本・企業と個人の力を急速に高めています。

すなわち従来の国家>企業・市場>個人という序列が崩れ、3者が鼎立(ていりつ)し、相互に影響を与え合いながら行動するモデルとなり、デジタル・プラットフォームの出現によって、個人レベルで国家や企業と同等のことを効率的に行うことが可能になってきているのです。

排外主義の中で進行する個人の「二極化」

このパワーシフトの中で、個人について考察すると、現在の社会変化については移民問題がクローズアップされがちですが、変化の本質は、極右の国家主義か社会主義かというイデオロギーの問題ではありません。

多様化を認め、変化が当然の「開いた社会」を望む(あらゆる変化に可能性を見いだし、国を消極的にしか必要としない)人々と、多様化を認めず変化を拒否する「閉じた社会」を望む(あらゆる変化をリスクと感じ、国を積極的に必要とする)人々の分裂が起きているということであり、移民排斥は、その分裂が示す表面的な現象に過ぎません。

これには格差が背景にあると言う人もいますが、格差は社会が多様化のメリットを認めた当然の帰結とも言えます。政治家、マスコミ、学識者は、エリート対大衆・民衆に代表される少数対多数という、お定(き)まりの対立構図を持ち出しますが、もはやその構図は意味をなさないと思います。

その中で、先進国では、国家に対してパワーを強めた(自律した)個人と、パワーが弱まり、パワーを減じている国家に依存する個人(パワーの低下が止まらない国家は、彼らをパワーの再強化に利用します)への二極化が明確に進行しつつあります。

つまり、国家と企業と個人の3者間のパワーバランスが、「開いた社会」を志向する人々と「閉じた社会」を望む人々との間で異なっているということです。