「一兵卒」という言葉に共感してしまう人たちがいる。「国家や組織のためなら死んでも構わない」という滅私奉公のロマンに酔っているのだ。コラムニストの河崎環氏は「『一兵卒』とは『社会のネジ』になるのと同じこと。多様性が求められる現代社会で、そうした意識の人は通用しない」と指摘する――。

「一兵卒」にじわっとロマンを感じる組織人

8年前、小沢一郎氏の「一兵卒として微力を尽くす」という発言によって、「一兵卒」という言葉が注目を集めた。大組織に属する小さく謙虚な存在、との意味らしいが、いまだにこの言葉を使う人たちがおり、筆者は耳にするたびに強烈な違和感をもつ。理由のひとつは軍隊のメタファーだからだろう。

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当時、民主党最大の実力者であった小沢氏が「一兵卒」という言葉を使ったことで、そのギャップは戦争を知らない世代の人々に「なに言ってんだ」と面白がられ、同年の流行語大賞候補に挙がるほどだった。だが、この言葉にじわっとロマンを感じてしまう人は、自分の中の「危険な傾向」に気づいていない。しかも、小沢氏のような昭和世代だけでなく、比較的若い世代にも共感してしまう人がいるようなのだ。

もちろん始めは、そんなつもりなんてなかったんだろう。でも「しょせん下っ端ですから、身の程をわきまえ一兵卒として全力を尽くします」なんて、大組織の末端に位置する自己の存在の耐えられない軽さや、意思決定の裁量が全て上司の手中にあって振り回される悲哀を表現した、自虐ネタやちょっとした流行語として使う人は多かったはず。そのうちに、言霊じゃないがそのMっ気精神がすっかり内面化されてしまった30代・40代のサラリーマンや政治家(2010年当時は若手や中堅でも今は十分におじさん)がいる。

自覚的なようで無自覚な「一兵卒マインド」の怖さは、その視線が組織の中の人間関係にしか向いておらず、判断基準が組織で共有されるローカルルールにすぎないということだ。したがって本人はグローバルだったり、名が知れたりの大組織の一隅に所属する者として視野が広いつもりが、残念ながら極狭小で、組織外から見る人々の違和感や拒否感、すなわち世間との乖離に鈍感なのだ。本人がどう自負しているにせよ、ローカルルールで生きるとは、つまり田舎モノなのである。

2018年、明けましておめでとうございます。本年第1回としてお送りするお題は「一兵卒マインドの足軽リーマンをいまだに大量生産してしまう日本の組織が直面する課題」です。

「一兵卒ごっこ」な発言にあぜん

同世代のサラリーマンたちが口にする「一兵卒」を、あくまで冗談と受け止めて耳にしてきた筆者だが、最近聞いた「一兵卒」は、あるアラフォー衆議院議員のニュース番組での発言にあった。昨年の衆議院選直後、揺れる所属政党の行く末をインタビューされ、真顔で「いやぁ、わかんないですねぇ。私はただ一兵卒として、党の上層部の決定に従うだけです」。有権者からの投票によって自身が当選したその日である。

あのね、サラリーマンじゃないんだからさ。政治家という職業をなんだと理解しているのか? 政党とは政治思想を共にする政治家の組織であって副次的なものに過ぎず、それ以前にあなたは有権者から票を投じられて託された国民の代表だろう。この政治家は、自分の政治存在が「有権者の意思」ではなく「党」に所属していると思っている。

仮に小沢一郎オマージュのジョークだとしても寒い。その文脈で上層部だとか一兵卒なんて言葉を出してくるセンスが信じられなくて、有権者たちを自分の兵隊ごっこに巻き込むなよ、とあぜんとした。謙虚のつもりなのかどうなのか、現代を生きる若手政治家がそんなのを口にして粋がっちゃいけない。第一、粋でもなんでもないし。