劉備の天下統一の夢を潰した天才軍師

司馬懿(しばい)は179年生まれ(諸葛亮より2歳年上)。曹操に才能を見込まれて仕えるようになり、曹操の長男である曹丕(そうひ)の教育係、のちに軍師としても活躍をした人物です。

『実践版 三国志』(鈴木博毅著・プレジデント社)

小説の『三国志演義』では、孔明や蜀を苦しめる敵役として描かれた司馬懿ですが、魏の側から見れば前半は優れた功臣、後半は王朝を滅ぼした裏切り者でした。司馬懿は、関羽が魏の樊城を攻めたとき、呉の孫権を動かして魏の危機を救い、関羽を敗死させるきっかけを作るなど功を立てています。

しかし、魏の3代目の皇帝である曹芳のときにクーデターを起こし(249年)、曹氏の魏帝国を実質的に滅ぼした人物となりました。そのため、司馬懿は正史の『三国志』に詳しい記述はなく、新王朝を開いた人物として『晋書』などに記述が残されています。

「内は忌にして外は寛、猜疑して権変多し」(書籍『司馬仲達』松本一男より、『晋書宣帝記』から)

外見は寛大そうだが、猜疑心が強く人を信用せず、「権変」つまり権謀術数を多用した人物だということです。曹操は司馬懿を見て、長男の曹丕に「あの男には気を付けろ」と言いました。司馬懿の外見の寛大さに、曹操は騙されなかったのです。

魏の初代皇帝となった曹丕は、自身の教育係が司馬懿であったこともあり、父の猜疑心から度々司馬懿をかばい彼を強く信任し、確固とした信頼関係を持っていました。

「私が東征した時は、金は留守居役として西方の問題に対処し、私が西の蜀を討つ時は、君は東の呉に備えてもらいたい」(書籍『正史三国志英雄銘銘傳』より曹丕の言葉)

曹丕は幼い頃から父にしたがい従軍をした人物で、実戦の気風と人使いの要諦を身に付けていたのかもしれません。巻き込み方の上手い曹操父子に仕えることは、司馬懿も納得していたのでしょう。

それでも、疑い深い性格は、司馬懿が命を保つ重要な武器となりました。曹操は、才能をひけらかした部下を何人も処刑したからです。乱世に生き、権謀術数と権力闘争の中では、安易に自分の立場が安泰だと思い込むことは、足元を掬われることにつながります。

司馬懿がクーデターを成功させたとき、魏帝国の権力者曹爽は、司馬懿の高齢でもうろくした演技に騙されて、警戒をまったく解いてしまいました。結果、隙を見せることになり、司馬氏はやすやすとクーデターを成功させ、曹爽一族をことごとく抹殺します。これが疑うことの下手な者の末路です。