史跡でなければ、なんでもあり

ここまで述べてきたように、昭和30年代から40年代にかけて、全国各地に雨後の筍のように鉄筋コンクリート造の天守が建つことになった。その数は史実と無縁の模擬天守がもっとも多かったのだが、昭和40年代後半からは、とくに国指定の史跡においては、天守の建設が控えられるようになった。

戦災で焼失した天守の外観復元が試みられた岡山城でさえ、石垣を崩してあらたな出入口がもうけられたのが象徴的だが、建造物を整備するにあたり、石垣などの遺構への配慮に欠けることが多かった。そうした行為が、むしろ史跡の価値を損ねてしまうことが問題視されるようになってきたのである。

逆にいえば、史跡に指定されていなければ、引き続きなんでもありの状況だったともいえる。川之江城(愛媛県四国中央市)は、関ヶ原合戦後に伊予に移封になった加藤嘉明が整備したが、嘉明が居城を松山城に移したのち、慶長20年(1615)もしくはそれ以前に廃城になった。

平成に突如建てられた白亜の天守

当時の遺構は現在、本丸に石垣の一部が残るだけだが、昭和61年(1986)、城跡の景観は一変した。川之江市制三十周年記念事業の一環として、天守のほか涼櫓、櫓門、隅櫓、控櫓が次々と建てられたのである。

香原斗志『お城の値打ち』(新潮新書)

往時の史料はなにもないので、天守は犬山城を参考にしたそうだが、基本的にはみな想像の産物である。建築にあたって藤岡通夫氏に指導を受けたおかげで、みなそれらしい外観であるのがせめてもの救いだといえようか。

織田信長が美濃(岐阜県南部)に侵攻するにあたり、まだ木下藤吉郎と呼ばれていたころの豊臣秀吉が永禄9年(1566)に、わずか3日半で築いたとされる墨俣城(岐阜県大垣市)。その逸話が記されているのは、主として江戸時代初期にまとめられたという『武功夜話』だが、『信長公記』ほか同時代の史料には記述がないため、後世の創作だとする見解も少なくない。

だが、この秀吉の逸話が史実であろうとなかろうと、墨俣城が土塁や空堀で構成され、木柵などで囲って簡易な建造物を配置しただけの造りであったことはまちがいない。