※本稿は、香原斗志『お城の値打ち』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
黒田官兵衛ゆかりの中津城天守は史実と無関係
中津城(大分県中津市)は天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を平定したのち、豊前六郡(福岡県東部と大分県北西部)の領主になった黒田官兵衛孝高が築いた。
関ヶ原合戦を経て、黒田家が筑前(福岡県北西部)に移ると、豊前には代わりに細川忠興が入封。細川藩の本城は小倉城とされたが、同じ領内の中津城は一国一城令の発布後であったにもかかわらず、例外的にそのまま維持することが認められた。
寛永9年(1632)、その細川家が熊本に転封になると、周囲の外様大名たちを監視する役割を負って譜代大名の小笠原氏が、享保2年(1717)には、やはり譜代大名の奥平氏が入り、そのまま奥平氏の居城として明治維新を迎えている。
その間、細川時代には天守が建った形跡がある。たとえば元和5年(1619)に、細川忠興が息子の忠利に宛てた手紙には、中津城天守を約束どおりに(明石城を築城中の)小笠原忠政(忠真)に渡すように、という指示が記されている。だが、結局、明石城には天守は建てられていない。中津城の天守がどうなったかは記録がないから不明だが、その2年後には天守が建っていないことが確認できる。以後、絵図等にも天守は描かれていない。
めちゃくちゃな「怪しげな城郭建築」
それなのに旧藩主の奥平家が主導し、観光のシンボルとして現在の模擬天守が建てられたのである。二重櫓が建っていた石垣に石を積み増して天守台をこしらえ、古写真が残る萩城天守をモデルに、史実と無関係の天守がそびえている。
だが、藤岡通夫氏(註・和歌山城や熊本城の外観復元天守も設計した当時の東京工業大学教授)が設計しただけのことはあって、由緒ある建造物かと見まがうようである。同様に史実と異なりながら、ほかの模擬天守となにが違うのだろうか。藤岡氏の以下の記述にヒントがあると思われる。
「近年建てられる怪しげな城郭建築では、この柱と窓の関係が鉄筋コンクリート造であるために滅茶苦茶で、同じ形の建物を木造では建てられないようなものが多い。このような建物が平気で世の中を横行しているのは、淋しい限りといわざるを得ない」(『城と城下町』)。