コンビニがない時代、先駆けて「おむすび屋」を始めた

娘が小学生、健太さんは保育園に通っていた時期のことだった。

「主人といろいろ研究して、最初は機械を借りてやってみたんだけれど、機械では美味しくないから、やっぱり手作りにしようと。小ぶりで具沢山にしようというのは、最初から。主人がこだわったのは米、新潟の胎内米に決めて、それは今までずっと変わらない。海苔は有明産。これも、今も同じ。最初は、定番の5〜6種だけ。今は、具は30種。お客さんの要望で、増やしていって」

コンビニおにぎりがなかった時代のこと、米屋のおにぎりは近所の学生をはじめ、多くの住人から歓迎された。

「子どものことをほったらかしにして、ずっと働きずくめでしたね」

長年、立ちっぱなしでおにぎりを握り続けていたなんて、超人技としか思えない。小柄な身体のどこに、そんなエネルギーがあるのだろう。とはいえ、50年もの歳月には、さまざまな紆余曲折もあったのではないだろうか。

「大変だったこととか、私、そういうことを思うのが嫌なんです。もともと、振り返るのが好きじゃないから。今が元気で、働ければいいなと思うだけで」

撮影=市来朋久

3人の子を育てながら、夫婦ふたりで仲良く働いてきた

間違いなく、苦労はあったはずだ。しかし。弘子さんは苦労を苦労とは思わない。黙々とおにぎりを握り続け、3人の子どもを育て上げ、今は高齢で働くことが難しくなった夫の代わりに、息子と一緒に働く日々。その健太さんも今や、51歳だ。

「母は、自分が小さい頃からずっと働いていましたね。おにぎりだけでなく、父の米の配達にも一緒に行っていたし、仲のいい夫婦でした」

夫婦は毎日、顔を突き合わせて働き、米を売り、おにぎりを作り、一緒に店を繁盛させ、子どもを育て、暮らしてきた。

世は専業主婦が生まれ、「亭主、元気で留守がいい」と言われた時代だというのに、夫婦力を合わせて、額に汗して、共に店を守る。それが弘子さんにとっては、当たり前のことだった。働くことこそ、喜びだから。しかも、惚れて一緒になった伴侶と、だ。

撮影=市来朋久