長女・彰子の産んだ皇子たちに三女と四女を嫁がせた
道長が三条との権力闘争と小一条院の引き下ろしをきわめて巧妙に仕組み、いわゆる「穏便な」雰囲気をよそおうのにたけていたことは、その過程を記録した『藤原道長日記』のそっけない筆致にあきらかである。そして、このような道長の「平和的な」覇権を支えたのは、さまざまな偶然と幸運であったが、そのとき、つねに最後の手段として利用されたのが、道長の家族、男女の子どもたちであった。
1018年(寛仁2)、威子立后の「望月の歌」を詠んだとき、道長は53歳。図表1に示したように、子どもたちのうち、まず
長女の彰子は太皇太后、天皇=後一条と皇太子=後朱雀の母、31歳。
次女妍子は三条の後家の皇太后、25歳。
三女威子は中宮、天皇=後一条の妻、20歳。
いわゆる二家三后である。さらに3年後には嬉子が皇太子=後朱雀に嫁し、後に後冷泉を産んで贈皇太后となる。以上の4人は、道長の最初の妻、倫子(宇多源氏の左大臣雅信の娘)の所生である。そして、この倫子から生まれた男子は頼通・教通であり、頼通が後一条の摂政となっている。
高貴な血筋の姫を娶ったことが、道長の勝利をもたらした
また、道長には主な妻としてもう一人、姉の詮子がひきとって育てていた源明子(安和の変の被害者である源高明の養女)がいる。その娘の寛子は前述のように前皇太子。小一条院の妃となり、もう1人の尊子は具平親王(村上天皇七男)の息子の源師房(村上源氏)に嫁入っている。明子から生まれた男子は頼宗・能信など。頼宗は皇太子=後朱雀の東宮大夫となっている。
道長は彰子・妍子・寛子・威子を順次に利用し、そして、天皇(後一条)・皇太子(後朱雀)に、頼通(摂政)・頼宗(東宮大夫)を配置したのである。一条・後一条・後朱雀の三代の天皇にわたって、その正妃に娘をあてるという道長の閨閥は、生物学的にみても異様なものであるが、ここに、王家と道長の家族はほとんど融合し、道長は、それによって王権中枢を占拠したのである。
そもそも「末っ子」道長は、「おのこはめがらなり〔男は妻〈妻柄〉できまる〕、いとやむごとなきあたりにまいるべきなめり」(『栄花物語』)という持論をもっており、兄の道隆・道兼とことなって、最初から妻に倫子・明子のような王族を迎える条件ももっていた。そして、道長の長男の頼通も、それにしたがって具平親王の娘隆姫と結婚し、同じく倫子腹の教通も隆姫の妹の嫥子を迎えている。