正妻・倫子の子は円融天皇系、明子の子は冷泉天皇系についた

当時もっとも天皇に近い血筋の王族、村上源氏との関係が王家との一体化に大きな意味をもったのはいうまでもない。道長は、頼通に子どもが生まれないのをみて、1024年(万寿1)に隆姫の弟、源師房を頼通の猶子(義理の子)に迎えており、さらに頼通はやはり村上源氏の源憲定のりさだや源頼成よりなりの娘を迎えている。頼通・教通の宮廷生活の出発点は、このように村上源氏出身の女性たちとの生活にあったのである。こうして、村上源氏の師房流は、以降の政治史のなかで大きな位置をもつことになる。

これに対し、道長のもう一人の妻である明子所生の男子たちは、頼宗が後一条の皇太弟=後朱雀の東宮大夫に配置された関係で後朱雀との関係を強めたのであるが、それと同時に、頼宗・能信の兄弟は、同腹の姉妹=寛子が小一条院に嫁させられた関係で、三条天皇流との関係も養っていた。

まず、兄の頼宗は伊周の娘と結婚しているが、娘を小一条院に入れている。そして弟の能信は三条の妻の妍子が入内したとき、中宮亮ちゅうぐうのすけとして奉仕しており、さらにその邸宅の閑院かんいんが小一条院の邸宅と隣同士であった関係もあって、退位を思い立った小一条の相談を受け、その意向を道長に取り次いでいる。この名邸として聞こえた能信の閑院は、能信が本主公季の長男である実成の娘を嫁にし、公家の養子となったために伝領したものであるが、公季も三条の東宮大夫を長く勤めており、三条天皇との縁が深い人物なのである。

三条天皇像(画像=『百人一首画帖』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家族総出で王家との関係を深め、両王統を融合させていった

なお、公季は、師輔と康子内親王(村上の妹)のあいだに生まれ、村上の膝下で冷泉・円融といっしょに育てられた准王族というべき人物であり、能信と公季流の結合も、道長の宮家好みとの関係で考えることができる。そして、ここで道長子息との関係ができた関係で、閑院流=公季流藤原氏は、上記の村上源氏=師房流とならんで、院政期にむけて大きな位置をしめることになる。

能信は退位した小一条院の院別当となり、さらに妍子の中宮亮であった関係で、三条と妍子のあいだに生まれた禎子よしこ内親王の後見人ともなり、後に内親王が後朱雀天皇の中宮となったときには、その中宮大夫となって仕えることになる。禎子内親王(陽明門院)がのちの天皇、後三条の母であることはいうまでもない。

以上のようにして、道長の子どもたちは、いわば家族総出で道長の手駒となって王家との関係を深め、冷泉・円融の両王統と癒着・融合し、その結果、冷泉系・円融系の王統迭立は解消されたのである。