道長の好きにさせないため「命しばらくは保たん」と願ったが…
藤原実資は、日記のなかでそのような道長の姿勢を「王命に背くをもって賢となす」と批判している(『藤原実資日記』同年4月)。そういうなかで1013年(長和2)7月、妍子から産まれた子どもは女子(禎子内親王、後の陽明門院)であった。女子の誕生を知った道長は、「悦ばざる気色、甚だ露」であったという。もし、ここで男子が産まれたならば、ふたたび摂関家が両統に皇子を有する体制、両統の迭立情況が現出し、融和は本格化したかもしれない。
だがこのときには、すでに三条の健康状態がもたなくなっていた。三条の病状は、1014年(長和3)春以降、「近日、片目見えず、片耳聞こえず」という状態で、三条は自分の調子がよいのをみると道長は機嫌が悪い、それならばどうしても生きぬくなどと三条派の貴族に語って敵慨心を燃やしたものの(『藤原実資日記』)、彼らも動くに動けない状態となるのである。
そして三条の病勢が悪化の一途をたどるなかで、道長は彰子腹の孫=後一条への譲位を勧め、結局、三条は後一条の皇太子として自分の子どもの小一条をつけることを確保しただけで、1016年(長和5)正月、退位に追い込まれる。そしてその翌年、死去してしまうのである(42歳)。退位直前の和歌。
こころにも あらでうきよに ながらへば こひしかるべき 夜半の月かな
(三条院、『百人一首』)