父親も祖父母も、母親には何も言わなかった。如月さん曰く、「1言うと100言い返されるのがわかっていたからだと思います」とのこと。母親はたびたびパニックのような症状を起こしたり、平気で嘘をついたりするため、父親も祖父母もあまり関わらないようにしていたようだ。

この母親の存在が、その後の如月さんや他の家族の人生にも大きな影を落とすことになるのだが、それでも如月さんは明るい子に成長した。

とはいえ、やっかいだったのは母親の過干渉の激しさと、篤い信仰心で日々拝み続け心の平穏を獲得しているはずも、しばしば感情を爆発させて家族に対して攻撃するヒステリックさだった。

「母は宗教のために生きている人でした。私の友達の家にまで電話をかけ、選挙や新聞購読をすすめるなど啓蒙活動に必死。そのせいで『あの家の子とは遊ぶな』と言われていたと思います。また、ゲームやテレビは1日1時間と決められ、『お菓子を食べるな』『コーラは飲むな』と行動を厳しく制限され、『拝みなさい。信心しないと不幸になる』と何度も何度も。脅されていたような感覚でした」

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救いは、同居する父方の祖父母だった。母親に厳しく叱られた時はたっぷりと慰めてもらった。

「祖父母の温かさには救われました。特に祖母は、いつ、どんな時でも怒ることはなく、私が食べたいものを作ってくれました。夜中だろうが早朝だろうが、どんな時でもわがままを聞いてくれる祖父母でした」

不登校に

小学校中学年になった如月さんは、本名が個性的な名前だったせいで、名前に汚物のような言葉をつけて、クラスメイトの男子にからかわれるのが嫌で、不登校になってしまった。

最初は、如月さんを半ば強引に車に乗せて学校へ行かせていた母親も、翌年には諦めたようだ。学校へ行かなかった彼女は家でテレビを見たり、本を読んだりして過ごした。母親は図書館へは連れて行ってくれた。

父親と祖父母は、不登校について何か言うことはなかった。

小5になると、新担任になった30代前半の女性教師が足しげく如月さんの家に通い、話に耳を傾けてくれた。次第に心を開いた如月さんは、まず遠足に参加し、徐々に学校行事に参加する頻度を増やしていくと、2学期には月に一度くらい休む程度で学校に行けるようになっていた。