「望月の歌」が残ったのは偶然
立后の儀の日取りは安倍晴明の息子の陰陽師、吉平の占いにしたがって決められ、10月16日、内裏の紫宸殿で行われた。そして儀式の終了後、道長の私邸である土御門殿に場を移し、大勢の公卿が集まって本宮の儀(宴席)が開催され、続いて、その穏座(二次会の宴席)がもうけられた。
その二次会の場で、酔った道長の口から飛び出したのが、教科書にも出てくる「この世をば」の歌だったのである。
この日のことは、道長の『御堂関白記』よりも実資の『小右記』に詳しい。じつは『御堂関白記』には、「和歌を詠んだ。人々は詠唱した」と書かれているだけで、具体的な歌にも触れられていない。歌は実資が記録したおかげで、今日まで伝わったものである。
倉本一宏氏は、この歌が残った偶然について、概ね以下のような説明をする。
道長は宴会で酔って詠んだ歌など覚えていなかっただろうが、偶然そこには、普段は滅多に宴会に顔を出さない実資がいて、いつもは一次会で帰るのに二次会まで残っていた。そうして歌を書き留めた。ただ、『小右記』には、書かれた記事がそのまま写された広本と、省略した記事が写された略本があって、この年はたまたま広本が残っていた――。(『平安貴族とは何か』NHK出版新書)
宴会の二次会で酔いにまかせて詠んだ
藤原氏が政治を私物化した摂関政治の象徴であり、道長という政治家の驕り高ぶった姿勢を表している――。この歌はそんなふうに理解されてきた。実際、かなり尊大な歌であるのはまちがいない。だが、所詮は酔って戯れに詠んだ歌であることを理解しておかないと、見誤ってしまう。
では、小右記にはどう書かれているのか。
「『和歌を詠まんと欲す。必ず和すべし』てへり。答へて云はく、『何ぞ和し奉らざるや』。又云はく、『誇りたる歌になむ有る。但し宿講に非ず』てへり(『和歌を詠もうと思う。必ず返歌するように』と(道長が)言うので、私は答えて言った。『どうして返歌しないことがございましょうか』。すると(道長が)また言ったのは『浮かれた気分の歌なのだ。でも事前に準備したものではない』)」
事前に準備することもなく、二次会のその場で、浮かれて即興で詠んだ、と道長は断っていたわけだ。酔いにまかせて、戯れて詠んだということだろう。では、道長のどんな「浮かれた気分」を表しているのだろうか。