小さな男の子が銃を突きつけ「なぜベールを被っていないんだ」
だが結局、抗議運動は失敗に終わった。その頃から、女性は道徳警察の監視下に置かれるようになる。ショックを受けたチャーラ・チャフィクは、「通りで小さな男の子に銃を向けられて、なぜベールを被っていないんだと言われたとき、この現実を理解しました」と言う。
また、ゴレスタンは自分の写真を振り返って、テヘランの女性たちが頭を覆わずに自由に通りを歩いたのはあの抗議運動が最後だったと思い知らされた。
イランに住み、この時期の歴史を記録したイギリス人ジャーナリストのジェームズ・バカンは、その後数年間で何十万ものイラン人が国を出て、トルコやヨーロッパ、アメリカに向かったと書いている。その多くは学者や専門家だった。彼らにとって、それは生死を分ける問題だった。
チャフィクも国を出た一人だった。「私は左翼の過激な学生運動でかなり注目を浴びていました。同志の多くが逮捕され、身を隠すしかなかったのです。偽名で暮らし、イスラムの政治警察に踏み込まれそうになると、すぐに住む所を変えました」と彼女は話す。
さらに、「反対者の捜索が広がるにつれて、ほかの多くの人たちと同様、亡命せざるをえなくなりました」とチャフィクは言う。彼女は徒歩と馬で3日かけてトルコ国境を越え、その後フランスに向かい、現在もそこで暮らしている。
初の女性閣僚は「売春を広めた」という理由で処刑された
イランでは、脱出前に捕らえられた左翼の活動家たちが棺桶のような状態で投獄されていたとバカンは書いている。そして、「5000人以上の若者が絞首台で命を落とし、1982年末までに抵抗勢力は壊滅した」と言う。その頃には、イランの圧政は別の圧政に移行したことが明らかになっていた。
1980年5月8日に処刑されたイラン初の女性閣僚、ファロクルー・パルサについては、公開されている情報が非常に少ない。わかっているのは、彼女が政界に進出する前はベテランの医師であり生物学の教師だったこと、そして常に女性の権利を求める活動の最前線にいたことである。パルサを出産したとき、彼女の母親は、ジェンダー平等に関する記事を発表して宗教保守派の怒りを買ったために自宅軟禁されていたと言われている。
パルサはイラン人女性の選挙権獲得のために奮闘した。イランは1963年、女性に選挙権を与え、同年、彼女は国会議員に当選した。その後、教育大臣に任命されている。
革命後、パルサはすぐさまイラン・イスラム共和国の標的になった。1980年に行われた裁判で、彼女に対する容疑には、「腐敗の原因をつくり、売春を広めた」という奇妙な疑惑が含まれていた。逮捕から数カ月で、彼女は有罪となり、処刑された。