苦手なことを避けるべきではないと思っているが…

社交の達人たちといるときは、こういうふうになります。一緒に食事に行った。誰かが来て挨拶をし、私も紹介されて、いつのまにかメンバーが増えている。問題は、私がこういうときつっけんどんになってしまうので、私のことをよく知っている人ほど、見知らぬ人との同席を避けてくれるという点です(それがいいのかどうかは謎として残るでしょう。私は年齢を重ねるにつれて、自分が苦手とするほうに人生を寄せていくべきだと思っているからです。歳月とともに安住してしまいやすいですし、冒険のチャンスも減るので、セーフティネットの外にいるためには、もっと積極的に努力すべきだと言い聞かせています。気持ちはそういうふうに持っているという意味で、実際の私はもっと安全地帯にいようとしているのです)。

他人の人生には外から見えない悩みがある

人の人生は、三人称の立場から眺めているときにはわからない局面で満ちています。いくら長年一緒にやってきた同僚でも、その人が仕事で経験してきた困難は私にはわからないし、ときに私がその人の「困難」の根源だったりもしかねません。

親しい友人も同様です。お互いに日常の細かい内容をやりとりしていても、改めて話そうと決心する前までは、本当の悩みがなんなのかわからないまま長い時間が過ぎていたりするものです。だから他人の人生についてとなったら、その人が言葉では表現していない、外からは見えないさまざまな悩みがあるのだろうと思えば、嫉妬で苦しむことも避けられるのではないでしょうか。

私は、自分が進めない道を力強く進んでいく人たちを羨望のまなざしで眺めています。同時に、彼らが語らない苦しみを私が知らないという理由で過小評価したりもしません。

自分が嫉妬している相手に追いつこうと努力することが成長につながる場合もあります。私は、仕事のときはスピード重視ですが、速度に神経を使わずに完成度を高める努力をする人を尊敬しています。なかでも、クリエイティブな仕事をしている人たちのしつこさというのは、大きな長所でしょう。適当なところでやめて楽をしようという気持ちを抑制できる資質のことです。

こうしなければ、ああしたほうがいいというアドバイスがこの世にはあふれていますが、他人に向いている方法が自分にもぴったりとは限りません。他人のやり方は参考にはなるものの、自分で試行錯誤を経るまでは、その答えはわからないものだからです。