社会には「正解」なんてないのに…

呪縛その③ 学校の成績がすべて

試験でよい成績を取ることが人生の目標になってしまう。気づかないうちにそんな思考になってしまう児童・生徒・学生、そして保護者は少なくありません。これもまた、学校がすべてという狭い思考に陥っている証です。ひょっとすると、教師こそが、最もこの陥穽にはまっているかもしれません。

実は、正解が存在するのは学校の中だけなのですが、そのことに気づかないまま社会に出ると、何が正しいのかわからなくなってしまいます。コロナ対策、景気対策、外交、安全保障、マーケティング、商品開発……。社会には、普遍的な正解なんてないわけです。

にもかかわらず、学校の中には常に出題者が用意した正解があり、それに合致する人が優秀と評価されてきました。優等生とは、他者の設定した基準に合わせる能力の高さだったのです。

けれども、自分の生き方に関しては、どうでしょう? それも他者の設定した基準に合わせるのですか? 自分なりの基準に照らして、自分が納得できるかどうかが最も重要なのではありませんか?

評価されるべき人が正しく評価されない

試験で評価されること、他者から高い評価を受けることがいちばん大事、といった判断基準は実は、学校だけでなく、広く社会に蔓延しています。

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人柄がとてもよくて気持ちがやさしく、誰かを助けてあげる子。学校の成績はあまりよくないけれど本当に親切な子。細かい作業をコツコツ続けられる子。そんな子どもたちの素晴らしさを適切に評価する仕組みは、現在の学校教育にはありません。

正解のある試験で評価されることが得意な子は「あの子はできる子」と言われ、社会で優遇されてきました。しかし、手先が器用とか、絵を描くのが得意だとか、おじいちゃんおばあちゃんの話がよくわかるとか、そんな子どもたちは、学校で必ずしも評価されてこなかったのです。そして、その考え方は、社会に出てからも見えない呪縛となって心の中に残っています。

正しいか、間違っているか。二項対立にとらわれてしまいがちなのは、そのためです。新しい選択肢は生まれず、思考停止に陥ってしまい、感情的な対立だけが繰り返される状況が、私たちの周りにあふれています。