信長が中国地方に向かうために作った中継拠点を活用したか

段取り力については、3万人もの兵が武具や武器とともに大移動するとなると、軍需品や食料の補給と兵站へいたん(ロジスティクス)を担う後方支援が必要となります。

最近の研究では、織田信長が中国地方に向かうための中継拠点「御座所ござしょ」を設けていたのですが、これを秀吉は中国大返しで活用したのではないかといわれています。

歌川豊宣 作「新撰太閤記 秀吉」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

御座所は食料を大量に備蓄し、大人数が宿泊できる拠点であったと考えられ、秀吉は畿内に向かう際にこれを活用した可能性があります。

とはいえ、事前の綿密な段取りがないと、3万人もの大所帯では有効に御座所を活用できないはず。実際、武具や武器などの物資について、陸路とは別に海路で運んだという説もあります。

諸説あるものの、さまざまな段取りをしたことは間違いありません

中国大返しの成功体験を活かした翌年の「美濃大返し」

私は秀吉の中国大返しが成功した要因は、情報収集力と段取り力によるところが大きいと考えますが、その後も秀吉は再びスピード感のある大移動を実現しています。

それは、山崎の戦いの翌年に行われた、柴田勝家との賤ヶ岳しずがたけの戦い(1583年)でのことです。

この戦いでは、近江(滋賀)で勝家と秀吉の両軍がにらみ合いを続けていましたが、秀吉は勝家に味方していた織田信孝(信長の三男・1558〜83年)を討つため、一時的に美濃大垣(岐阜)に移動したのです。

このとき勝家軍の一部が、にらみ合いの状況から秀吉不在の秀吉軍に襲いかかりました。にらみ合いから一方が動き出すのは、動いたほうの陣形が崩れるため危険なのですが、一時的に美濃大垣に移動した秀吉は、しばらく戻ってこないと考えたのでしょう。

これが1583年4月19日でしたが、翌20日には、秀吉が移動先の美濃大垣で、残った秀吉軍に勝家軍の一部が襲いかかったという情報をキャッチします。

襲われて討ち死にした武将を哀悼しつつも、ここで戻れば勝家軍に勝てると秀吉は確信したといわれます。

そこから美濃大垣から戦地の近江まで戻る「美濃大返し」が始まりました。