就活に失敗し、親の会社に「見習い」として入社

今日の感覚ならば大学生が聞いても何ともお粗末な就職観だが、皆が皆とは言わないがバブル期後半の勉強も部活だのサークル活動だのもパッとせず、特に打ち込むものも目指すものもない、ごく平均的な大学生が描く将来像とはおよそこんなところである。

こうしてヒラタさんはバブル崩壊後、後に「氷河期」と呼ばれる長く続く不況期での就職活動戦線に立った。

「この頃でもまだ就職しさえすれば彼女などすぐにできる。結婚できると信じて疑いませんでした」

こう語るヒラタさんは、周囲からの情報をもとに自己分析を行い就職戦線に望む。だが今日とは違いキャリア教育という概念もまだ浸透していなかった時代である。きちんとした自己分析も行わず就職戦線へ参戦。数打ちゃ当たるとばかりに70社近くエントリー。どこからも内定を得られなかった。

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「就職が決まらないので大学院へ進む人もいたといいます。でも麻雀とサークルに明け暮れた大学生活なので、とてもそんなことを考える余裕もなく。結局、親の会社に見習いとして入社しました」

だが、いくら親の跡を継ぐといっても、こうした消極的な理由での入社だ。仕事へのやる気はない。結局、その頃、大学を出たので独立という意味で作った実家の敷地内にある離れで日がな何するともなく過ごす日々を送る。

「何もできない息子」に対する周囲からの冷たい視線

「たまに外に出ては雀荘に通う。今の若い人は知らないだろうテレクラ(テレフォンクラブ)で女性相手に雑談に興じ、日々、無駄に過ごしていました。もちろんテレクラでナンパした女性と会っても、大抵は、そのまま食事を奢らされて何もなく女性側から帰っていきましたけどね」

実家が会社経営という恵まれた身分だ。だからこそできることである。ヒラタさん自身もそれはわかっていた。しかし、どう動いていいかわからない。実家が経営する企業の社員でありながらもハローワークに通ったり、就職雑誌を眺めては、興味のある企業にエントリー。断られる日々を過ごす。そうした日々は大学を出てから8年、30歳頃まで続いた。

「30歳を超えると、さすがに諦めました。それで本格的に家業に精を出そうと……」

しかし世の中は甘くはない。いくら実家経営の企業とはいえ社員たちは、それまでずっと遊び暮らしてきた「何もしない、できない社長の息子」に冷たかった。

「そうした社員たちの反発心というか。これに立ち向かうだけの力は私にはありません。結局、『こもる』と称して実家の離れに、ずっとひきこもっていました」

この頃になると大学や高校の同級生たちのうち新卒で就職した者たちとたまに連絡を取って会ってもどことなく話がかみ合わなくなっていた。