悪い主人に仕えても勉強になる

戦前の話である。ある製造部長が出社してみると、自分の机とロッカーがなくなっている。かねてから折り合いの悪かった上司の事業部長が、突然、倉庫係への異動を決めてしまったのである。4、500人はいた部下が2人に減ってしまった。

35歳ごろの松下幸之助(1929年撮影)(画像=パナソニック株式会社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

一度はやめる決心をした部長であったが、“待てよ、日本一の倉庫にしてからでも遅くはない”と思い直して、朝は5時から倉庫にこもり、合理化、改造に取り組む日々を続けていた。

そんなある日、幸之助がひょっこり工場にやってきた。

「こんなとこで何しとる。きみの工場から不良品ばかり出とるぞ。どういうこっちゃ」

ここぞとばかり左遷させられた事情を説明し、事業部長との意見の相違を訴える部長を制して、幸之助は言った。

「きみな、いろいろ言いたいことはあるやろうけど、人間、大成しようと思えば、よい主人、悪い主人、どちらに仕えても勉強になるんやで。よい主人なら見習えばよいし、悪い主人なら、こないしたらあかん……とな」

その製造部長の人事は自分が預かる、以後勝手に扱ってはならない、との幸之助の決裁によって、一件は落着した。

工場に入ったばかりの「文句の多い職人」

関東大震災のあった大正12(1923)年もまもなく終わろうとしているころであった。幸之助が工場の鍛冶場に入っていくと、見なれぬ小柄な若い職人が旋盤を使っている。どこの人かと思って尋ねると、「私はH工場の者です。ちょっと旋盤を拝借しています」とのこと。髪を長くし、鍛冶屋の職人というより芸術家のように見える。

H工場は松下電器の下請工場で、急ぎの修理や旋盤仕事をするときには、松下の鍛冶場を随時使用していた。青年は東京で震災にあい、職を求めて大阪に来て、つい最近H工場に入ったばかりだという。仕事ぶりを見ていると、手の運びや動作に、素人離れしたところがあった。

その後数日たって、H工場の主人に会ったとき、幸之助は言った。

「きみのところにいい職人が入ったね。このあいだうちの鍛冶場で旋盤の仕事をしているのを見たよ。なかなかうまいようだから、間に合うだろうね」

「大将、あれはダメです。文句ばかり多くてダメですわ。うちの仕事の方法や何やかやに文句ばかり言ってます。あら、ダメですわ」

「きみはそう言うけれど、あの男は相当仕事ができるように思うがなあ」

「実は弱ってるんです。いっそのこと、大将のほうで使ってくれませんか。うちではあれに適当な仕事もありませんから頼みます」

「きみがそう思うなら、ぼくのところによこしたまえ。しかるべく使ってみよう」

そんな経緯で入社した22歳の青年は、のちに新しいアイロンやラジオを開発し、技術担当の副社長として活躍した。