話し手が話したい場合に話したいことを話せる場を提供する
日常の会話でも同じです。相手が「悩んでいることや辛い気持ちなどについて話したい」と思っており、あなたも「傾聴することで支えになりたい」と願っているとき、沈黙を恐れてはいけません。
当たり障りのない話しやすい話題を振って、とにかく話してもらおうとするのは最善の方法ではないことが多いのです。
初心者が傾聴しようとするとき、話し手がすらすら話してくれないと困ってしまうことがあります。これは、聴き手が沈黙をこわがっているためです。
話し手から信頼され心を開いてもらえないと、「うまく話を聴けていない自分がダメなんだ」という気持ちになるからかもしれません。
こういう気持ちが強くなると、聴き手にはゆとりがなくなり、話し手のペースにゆだねて待つことができなくなるでしょう。そんな人間関係では、話し手は安心して話すことが難しくなります。
逆に、聴き手が「話しても話さなくても、どちらでもいい」と心から思えていると、話し手にとってその人間関係は安全なものになります。
傾聴とは、話し手が話したい場合に話したいことを話せる、そんな場を提供することです。
話をすること自体に意味があるわけではない
傾聴にあたっては、話をさせようとしてはいけません。なぜなら、話をさせようとすることは、話し手に対して「話さなければダメだ」という条件を課していることになるからです。
傾聴において大切なことのひとつに、「そのままの話し手を受け入れて大切に感じること」があります。もちろん、それがいつも完璧にはできるということはありません。
しかし、話し手のことを無条件に受容する態度が聴き手にあればあるほど、話し手にとってその人との関係性は安全なものになります。
話し手のことを無条件に受け入れる態度とは、「話したければ話を聴かせてほしいと思うけど、話したくなければ話さなくてもよい。どちらにしても私は話し手のことを同じだけ受け入れ、同じだけ大切に感じている」という態度です。
「あれについて話をさせよう」「このことを語らせよう」と迫る態度では、話し手を無条件に尊重して受け入れていることにはなりません。
そもそも傾聴の対話において、話をすること自体には意味がありません。「話し手が何かを話していれば意味があり、話し手が黙っているなら時間の無駄だ」、というものではないのです。
では、傾聴の対話では、何に意味があるのでしょうか?
話し手が話したいことを話し、それをわかってもらえたとき、そのやり取りを通して話し手の心に動きが起きます。
私たちは話をし、人に聴いてもらうことを通じて自分の考えを吟味し、感情を感じることができるのです。それを続けることで、わからなかったことに気付いたり、感じ方や行動に変化が生まれたりします。
こうした心の動きに意味があるのであって、話をすること自体に意味があるわけではないのです。