「木下とだったらうまくいく」という確信があった

僕が子どもの頃からずっとやってきたことがあります。というよりも性格としてどうしようもなく「やりたい」ことです。それが、自分が「好きなもの」「れ込んだもの」を人に知ってもらいたいという“おすすめグセ”です。最近の言葉だと“推し活”に近いかもしれません。

僕が木下と初めて出会って、すぐに彼に惚れ込んだ話をしました。中学生の木下は、引っ越してきたばかりで、まだ僕らが住む大阪の大東市住道という場所に馴染なじんでいませんでした。僕は、そんな木下を周りにすすめる係を率先して務めました。「木下ってええやろ」と地元の友達にドンドンと紹介していたのです。

提供=KADOKAWA

僕は、なんの疑いもなく「木下はすごいおもろいやつ」だと感じていました。一方で、僕は自分を「おもろい」とは思っていませんでした。だから、自分はそっちのけで、木下が友人たちに溶け込むように動いていました。

説得力を持って周りを巻き込むスキルを、僕は小学生のときから磨いていました。僕のもくろみは当たって、木下を地元に売り込むことに成功したのです。

コンビを組んで芸人になろうと思ったのも、「木下とやったら、いいバランスでできるかも知れへん」と考えたからです。それだけは、僕の中に確信がありました。

ところが、コンビを組んで月日が流れるにつれて、僕の甘さや、弱さが出てしまいました。木下に対して「なにくそ」と思って、張り合ってしまったのです。木下から「こいつメンドくさいことをいいよる」と思わされた場面でも、僕の器がもっと大きかったら、出会った頃のように叱ったり、なだめすかしたりしてコントロールできたはずでした。

相方に優しくできなくなっていた

僕は僕で木下に腹を立てていることが増え、木下は僕に腹を立てていることが増えた。そういう日常で、相方に対する優しい気持ちを失っていました。木下のパワハラ事件が起き、僕の投資トラブルがあって、やっとのことで、僕が本来木下に対して発動すべき役割を思い出せました。情けないことに「木下のおすすめ係が俺や」と最初に誓ったはずのテーマを忘れてしまっていたのです。

パワハラ騒動をきっかけに、木下は所属事務所の松竹芸能から契約解除になりました。僕は彼と話して、TKOの名前を残す決断をしました。いつの日か二人で活動を再開できるのを夢見ていたからです。そして、懸命にそれを実現しようと働きかけてもいました。

そんな中、僕の投資トラブルが明るみに出た。木下の復帰どころの話ではありません。僕まで松竹芸能に大きな迷惑をかけ、退所することになりました。僕はどうしようもなく落ち込みました。