かつて御所にあった仏間「二間」「黒戸」

また、平安時代には御所の清涼殿の東側に「二間ふたま」という仏間が設けられ、ここに歴代天皇の念持仏が納められていた。さらに、室町時代には清涼殿の北側に「黒戸くろど」という細長い部屋があり、二間とおなじようにここに歴代天皇の念持仏や位牌いはい、経典、仏具などが納められ、中に天皇が入って僧侶の加持祈祷きとうなどを受けた。室内や戸が護摩の煤などによって黒くなっていることから黒戸と呼ばれた。

第101代・称光天皇(在位1412~1428)、第103代・後土御門天皇(在位1464~1500)は黒戸で崩御した。黒戸には位牌が納められていたことから、それ以前の仏像のみをまつる厨子よりも仏壇としての役割が大きかったと考えられる。ちなみに、御所にあった二間や黒戸は明治の初年に撤去されることになり、念持仏や位牌は京都の泉涌寺に移されることになった。皇室が率先して神仏分離をする必要があったためである。

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歴史上の偉人の墓が全国に複数ある理由

仏壇は中国やタイなど他国には見られない日本独自の風習で、檀家だんか制度が確立した江戸時代以降、一般家庭にも普及した。そして、日本で仏壇が特異な発展を遂げたことには日本古来の葬送儀礼と深い関わりがある。

古来、日本では遺体を埋葬する「埋葬墓」と死者の霊をまつる「詣り墓」とがあり、前者を「塔所」、後者を「廟所びょうしょ」と呼んでいた。そして、廟所については複数設けられることも一般的だった。源頼朝などの歴史上の人物の墓(廟所)が方々にあるのはそのためである。

このような遺体と霊をわけてまつることを「両墓制」と呼んでおり、これはインドなど各地に見られる墓制である。しかし、インドなどでは遺体は火葬にしてガンジス川などに流すが、死者の霊については特に仏壇や廟所のようなものを設けてまつる習慣はない。この点が同じ両墓制でも大いに異なるのである。

仏壇に死者の霊をまつる風習は日本の神に対する信仰(神道)に起源があるようである。日本の神はふだんは天界にいるのだが、その神を礼拝するときには神社の本殿や家庭などの神棚に招いて祈願をする。この習俗が仏壇での礼拝を可能にしたと考えられる。ちなみに、インドでも棚や机の上に祭壇を設けてシヴァ神などの神を礼拝する風習はあるが仏壇のような半固定的な設備を設けることはない。