家老の籠城策を退け、国境で今川義元と戦うことを決断
簡単に要約するとこうである。
夜間の清洲城に、今川義元の進軍ぶりが伝わった。信長はこの段階で、国境で決戦するように主張した。このまま守りに徹するだけで、尾張を蹂躙されて三河に帰陣されては、守る側の立つ瀬がないと考えてのことであった。
しかし、家老衆は、こちらには敵の1割にも満たない少数の兵しかないので、この堅固な清洲城に籠城するのが最適解だと、信長の意見に反対した。すると信長は「身近な例としては、畿内の河内畠山家臣・安見右近丞は、野戦を好まなくなったため、味方が減って没落したことを忘れるな」と強弁して、国境で今川義元の軍勢と戦うことに決定した。
そこで酒宴がはじまり、熱田神宮の猿楽者と思われる宮福太夫なる者が、「武将たちの酒盛りを盛り上げたい」といって謡だし、それに信長が鼓を合わせた。それからは入り乱れての酒席になり、信長は退出したということである。
ここにある内容は、小瀬甫庵の『信長記』に似ているが、信長が自ら鼓を打って、酒宴を盛り上げる様子はかなり異質である。
牛一の『信長公記』は史料価値が高い。だが、その様式は「軍記」である。よって相対的に見るべきだとする意見もある。
特に首巻は、そもそも誰かが太田牛一を自称して捏造した文学作品(つまりは偽書)ではないかと懐疑的な目を向けられることもある。
『信長公記』首巻は太田牛一が書いていないという説
ここで、近世初期にたくさん書かれはじめた「戦国軍記」というものを考えてみよう。
これら初期の軍記は、ぱっと思い浮かぶだけでも、『信長公記』『甲陽軍鑑』『松平記』『松隣夜話』『北条五代記』『豊鑑』の名前を挙げられるが、どれも明確に、文体、構成、執筆姿勢が大きく異なっている。
どの軍記も記主の「自分の知っている歴史をなんとか書き残して後世に伝えていきたい」という強い願望を感じる。それだけに、記主の個性が強く反映されている。近世中期(江戸時代)になって爆発的に現れる文学的な物語重視の作風と異なり、かなり荒削りで衒学的なところがない。
これは複数の軍記を読み比べたことのある人なら、首肯されることだろう。
牛一の著作にも独特の癖があって、『信長公記』をはじめとする牛一自筆の著作物と、同書の首巻は同じ文体の作品と認めて差し支えない。
100パーセント同一と断定するほどの実証材料は用意できないが、現段階では同一人物の著作物と仮定していいであろう。
では、なぜ写本によって、一部記述の印象が大きく異なるのだろうか。