高等教育を普及させるには課題山積

一方、大学や中学の設置は構想通りには進まなかった。とりあえず代替物で間に合わせて、中学校については1886年、各都道府県に尋常中学校を置くことでようやく軌道に乗り始めたことは、〈47都道府県の「旧制一中」の栄枯盛衰…地元トップを維持する名門22校と凋落した元名門17校の全リスト〉などの記事で紹介してきたとおりだ。

大学など高等教育については、本来の構想からすれば、フランスやドイツの制度にならい、全国に8つの総合大学をつくって、単位の互換性を認めるのが理想だったのかもしれない。だが、そんな予算も教師もその勉学の基礎となる中等教育を受けた学生もいなかった。そこで、まずできることから始めるということになった。

また、開国間もない当時の状況では、日本や東洋の歴史・文学を別にすれば、あらゆる学問領域で、過去の蓄積などほとんど役に立たず、外国語をマスターして留学するか、お雇い外国人の教官に学ぶしかなかった。それに加えて、促成栽培で各分野の中堅専門家を養成する必要もあった。

東京大学のルーツは外国文献調査と医学教育

そのなかで、京都にあった皇学所と幕府の昌平坂学問所を統合した「大学本校」、洋学を教え、洋書・外交文書の翻訳も担当した幕府の蕃書調所から開成所などを経て発展した「大学南校」、幕府の種痘所から発展した「大学東校」が運営されていたが、本校は新時代には無用だったので消え、あとの2校が1877年に合併して「東京大学」ができた。当初は法・文・理・医の4学部からなっていた。

ここに、原敬も学んだフランス法学を教える東京法学校(前身は司法省明法寮)が1885年に合流し、さらに、工部省の組織から出発した工部大学校が一緒になって1886年に日本最初の帝国大学(のちに東京帝国大学に改称)が成立した。さらに、1890年には東京農林学校も合流した。

国内2番目となる京都帝国大学の発足は、第三高等学校から分かれたものだというところが特殊だ。ルーツは1861年設立の長崎養生所という見方も可能だが、普通には1869年に創立された大阪舎密せいみ局と同年に開設された洋学校で、これが、開成所、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校、第三高等中学校と改称し、1889年に京都に移転、1894年に第三高等学校となり、1897年には京都帝国大学が設立された。

京都大学(写真=Soraie8288/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons