まがまがしい火星と月が並んで見える現象は不吉の前兆
「天文密奏」である。ちなみに熒惑星は「その国に兵乱が起こること、賊の害の起こること、疾病、人の死、飢餓、兵戦を支配する星」として恐れられたのである。実際、1千年まえ、晴明は、熒惑星の変異にたいしてその職務を執行している記録がある。永延1年(988)8月、安倍晴明が68歳のときだ。
その年の8月7日、熒惑星が軒轅女王星(しし座のアルファ星、光度1.3)と接近したために、天皇、皇后に「御慎み」のことあり、という奏上があった。ちなみに「軒轅女王星」とは、天文博士たちの基本図書の『晋書』天文志によれば「軒轅は黄帝の神であり、黄龍の本体である。皇后や后にかんすることをとりしきる官職である」(山田慶児訳『晋書』天文志)と定められている。その星を熒惑星が犯すのだ。とりわけ榮惑星が軒轅に入って動かないことは「天子、諸侯が忌みきらう」(『晋書』天文志)とされている。それゆえ、その災厄から逃れるために、天皇、皇后の「御慎み」となったわけだ。
ちなみにそれをリードしたのは、一条天皇の外祖父の摂政・藤原兼家である(兼家の娘の円融天皇の女御・詮子が一条天皇の母)。
晴明は宮廷の祭事を行うときも藤原兼家に配慮していた
しかし、このときはただ「御慎み」ですまなかった。熒惑星の災厄から天皇の身を守るために「呪術」「祭祀」が執行されたのだ(ただしこのとき一条天皇はまだ9歳で、皇后はいない)。
そこで天台座主・尋禅に比叡山延暦寺の惣持院で「熾盛光御修法」を執行させた。「熾盛光仏」とは、仏の毛穴から燃え盛る光焰を発することにちなむ名前で、榮惑星の災厄にたいして「熾盛光御修法」を行うのは、いわば火星から発せられる邪悪なる光を、仏の聖なる光でガードしようという発想である。
一方、このとき安倍晴明は「熒惑星祭」の執行を具申して、その執行が決定された。密教儀礼と陰陽道儀礼を併行することで、よりガードを固めるという趣旨だろう。もちろん、どちらかの効験があればよい、というのも権力者側の判断だ。
しかしこのとき、なぜか晴明は、榮惑星祭を執行しなかった。そのために8月18日、晴明は「過状」(始末書)を提出させられている(『小右記』)。どういう理由で熒惑星祭をサボったのかは不明だが、あるいはこのときの行事が一条天皇の外祖父の兼家主導で行われたことへの政治的な配慮もあったのかもしれない。