藤原不比等の4人の息子から藤原氏は4つに分かれていった

その子・藤原不比等ふひとは大宝律令の制定や「日本書紀」の編纂へんさんに関わったという。後述するように、娘を天皇の后として藤原家繁栄の基礎を固めた。また、4人の男子は俗に「藤原四兄弟」と呼ばれ、政敵・長屋王ながやおうを失脚させたのを皮切りに、かれらの子孫が政変に次ぐ政変で政敵を倒して藤原氏ばかりが権勢を握り、第二段階として兄弟・従兄弟で政争を繰り返した。「光る君へ」はこの第二段階の頃の話である。

ちなみに、「藤原四兄弟」の末裔まつえいは、長男・藤原武智麻呂むちまろの子孫が南家なんけと称され、以下、藤原房前ふささき北家ほっけ、藤原宇合うまかい式家しきけ、藤原麻呂まろ京家きょうけと呼ばれる。当初は式家が勢力を誇っていたが、房前の高孫(孫の孫)の藤原良房よしふさ摂政せっしょうに就任して以来、摂政・関白を世襲し、北家の子孫――中でも摂関家――が隆盛を極めた。南家の末裔が公家・武家でも少なからず存在するが、式家・京家の子孫を称する家系はほとんど存在しない。

筆者作成

娘を天皇の后として宮廷に送り込み、閨閥により特別な家系へ

藤原氏が摂政・関白に就任する大前提として、娘を天皇のきさきに送り出し、次期天皇の外戚がいせき(母方の親族)となることがあげられる。【図表2】

不比等の娘・宮子みやこが第42代の文武もんむ天皇、その異母妹の光明子こうみょうしが第45代の聖武しょうむ天皇の后になっている。古代天皇家は母親の出自を重視していたという。蘇我家没落後、しばらく皇族の娘を后に迎えていたが、ここにも少子化の波が訪れ、代わりに藤原氏から后を迎えることになったようだ。

逆に天皇家から藤原家に嫁を出す例も現れた。第52代の嵯峨天皇は子女が多く、子どもを1軍と2軍に分けて後者を臣籍降下させた。そのうちの一人・源潔姫みなもとのきよひめを藤原良房よしふさに嫁がせた。当時、皇族の女性を臣下に嫁がせることは禁じられていたが、臣籍降下させた娘なので抵触しないというていを取った。

それまで皇族以外に就任事例がなかった摂政に、良房が臣下としてはじめて選ばれた背景には、藤原氏を特別な家系とする仕掛けが施されていたのだ。

系図を見てもらえるとわかるが。この時代はまだ、みんな「藤原」姓を名乗っている。平安末期もしくは鎌倉時代だと苗字が発生して、近衛このえ氏とか西園寺さいおんじ氏と呼ばれるようになる。