嵐のない冬、暖かくない春、暑くない夏

しかし良い時代は終わりを迎える。地軸の傾き、太陽活動の変化、惑星の軌道といった環境要因が相互作用し、200年代には気候がどんどん不安定になっていった。ローマの人口や領土は成長が止まってしまう。

しかも2度のパンデミック─―一つはおそらく天然痘、もう一つはエボラ出血熱のような、フィロウイルス科の感染症だったのではないかとハーパーは推測している―─が帝国を襲った。

それにより帝国は大きく揺れたが、崩壊はしなかった。ハーパーによれば、帝国の決定的な崩壊の裏には、もう一つの気候変動があったのだ。

研究者らは近年、氷床コアと年輪の調査により、ローマ帝国崩壊の直前に極めて異常な気候現象が起きていたことを突き止めた。古代後期小氷期と呼ばれるものだ。

6世紀に3回連続して起きた大規模な火山噴火により、大気に硫黄粉塵が充満し、それが数年にわたって太陽光を跳ね返していた。それに加えて太陽活動も弱いサイクルに入った。

ローマの政治家カッシオドルスも536年に、“どれほど奇妙に思われても、太陽がいつものような明るさを失って輝いている”と記している。“今でも太陽は見えているが、海のように青い。驚くべきことに、人の身体は日中でも影を落とすことがない……嵐のない冬、暖かくない春、そして暑くない夏を過ごした”

写真=iStock.com/Thomas Faull
※写真はイメージです

ローマの人口の半分が死に絶える

そして過去2000年で最も寒い冬がやってきた。寒波と同時に、一説によればまさにその影響で、世界的にせんペストが流行し、ローマの人口の半分が死に絶えるという信じられないような人口変動が起きた。労働力の不足に加えて日照量も減少したことで、数世代にわたって農作物の収穫量が大幅に減少することになった。

今や帝国は弱体化し、皇帝の税金庫は長いこと空っぽのままだった。ローマはもはや有能な軍隊を維持したり、住民に無料で穀物を配布したりすることができなくなった。それが国家安定の2本の柱だったのに。

“パンとサーカス”のコンセプトを覚えているだろうか。今やその方程式からパンが消えてしまい、社会の安定は空洞化した。そして最終的に近隣民族の侵略によって崩壊したのだ。

気候変動とパンデミックがローマの栄枯盛衰に大きく影響したという説が広く受け入れられるようになるかはまだわからない。しかし、太陽活動のわずかな変化が文明の崩壊につながると考えると空恐ろしい。人的要因と環境要因の絶え間ない相互作用は、歴史を理解するために欠かせないのだ。

とはいえローマ帝国の崩壊は人類の終焉しゅうえんにはならなかった。ローマの領土を奪った者たち、つまりフランク人とアラブ人がさまざまな理由により腺ペストや気候変動を免れたのは特筆すべきことだ。敗者がいるところには、必ず勝者がいるものだ。