舞台公演中も楽屋で授乳、「ブギの女王」としてブレイクする
笠置は日劇「ジャズカルメン」の舞台を最後に引退して出産後には吉本頴右との結婚を計画していたが、それも叶わぬ夢となった今、愛児を抱えて再び歌手として復帰しようと決意した。笠置はそのときのことを、手記にこう書いている。
「このブギに再起を賭けた私は、全身のエネルギーをふりしぼり、声帯のエンジンをフルに回転させて、歌い、踊り、咆え、叫んで客席と一体化した熱気のうちに、自分自身の新しく生きる力をヒシと確かめようとしました。その意味で『東京ブギウギ』は私自身の復興ソングだったのですが、思いがけなく戦後大衆の復興ぶしともなり、(略)『ブギの女王』なんて身にあまるキャッチフレーズさえいただくようになりました。」(『婦人公論』1966年8月号「ブギウギから二十年」)
自らの復興と、大衆の復興が渦のように一つになったのだ。
何事にも全力投球で体当たりする笠置の戦後は、“ブギの女王”とともに“未婚の母”として生きることから始まった。たしかに笠置は器用な歌手ではなかったが、それだからこそ「笠置シヅ子は笠置シヅ子以外、誰にもマネできない」というプライドと意地があっただろう。どうすれば自分らしい表現ができるかと日々努力し、服部良一の期待と厳しい指導に懸命に応え、歌にすべてを賭けた。だが周囲は服部のように、ひたむきで頑固な性格の彼女を理解する人間ばかりではなかった。
母としての笠置を服部良一は応援したが、理解してくれない人も
榎本健一とともに「エノケン・ロッパ時代」を築いた名喜劇俳優の古川ロッパは膨大な著書『古川ロッパ昭和日記』を遺していて、昭和24年9月5日に笠置のことが出てくる。ロッパはこのとき歌手の灰田勝彦と共演の映画『花嫁と乱入者』の撮影で京都にいて、一緒に撮影所に向かう車の中で灰田がロッパにこんなことを語った。
「藤山一郎が入院しているときいたが、見舞いに行かなかった。笠置シヅ子がピンちゃん(注・歌手の藤山一郎)と同舞台で『子どもが病気故、今日はトリ(注・最後の出演者)を藤山さんにしてください。早帰りしたい』と言ったら、藤山は『僕は君の子どもとは何の関係もないよ』と言って、きかなかった由、それがシャクにさわって」
灰田勝彦は舞台や映画で笠置と何度も共演していて、笠置のよき理解者だったが、藤山一郎はそうではなかったことがうかがえるエピソードだ。笠置と藤山はともに戦後を代表するトップ歌手として数多く共演しているし、藤山はいかにも優等生で誠実な印象があって私には意外な気がした。