冬の陣後の和睦は大坂城を裸城にするのが目的だったか
徳富蘇峰が「和睦のための和睦でなく、戦争のための和睦」と評したように、徳川家康が大坂冬の陣で講和したのは大坂城を裸城にして攻めやすくするのが目的だった、と古くから考えられてきた。しかし、和睦交渉を細かく見ていくと、必ずしも謀略とは言えない。
慶長19年12月8日、大坂方の織田有楽斎・大野治長が徳川家康に対し書状を送り、大坂城の牢人に寛大な処置を願うと共に、秀頼の国替えについて、どの国を想定しているのか内意を尋ねた(『駿府記』)。ここから、家康が和睦交渉において、当初、牢人の処罰・秀頼の国替えを条件として提示していたことが分かる。
家康は有楽斎らの問い合わせに対し、牢人を処罰しないことを約束すると共に、秀頼を大和国へ転封させるつもりだと伝えたという(『大坂御陣覚書』)。その後、家康は豊臣方に和睦条件として、淀殿を江戸に人質として差し出すか大坂城の堀埋め立てを要求した(『大坂冬陣記』)。
大坂方は「淀殿を人質として出す代わりに加増を」と強気だった
徳川家康は大坂城の堅牢さを十分承知していたため、大きな犠牲を伴う力攻めには当初から否定的だった。家康は主戦論の秀忠を抑えつつ、大坂方と講和交渉を進めていた。しかし、真田丸の戦いの勝利で勢いづいた大坂方が「淀殿が人質となって江戸に下るかわりに、籠城している牢人衆に知行を与えるため加増してほしい」と強気の要求をつきつけて家康が反発したため(『駿府記』)、交渉はいったん暗礁に乗り上げた。
ところが、数日後には、一転して和睦の気運が高まった。家康は「石火矢」と呼ばれる大砲をオランダ・イギリスから購入し、本丸や天守を砲撃した。大砲の弾が淀殿の御座所に直撃したため、徹底抗戦を説いていた淀殿は和睦に傾いた(『難波戦記』『天元実記』)。12月18日・19日の両日、関東方と大坂方の和平会談が行われた。大坂城の二の丸・三の丸を破却すれば、淀殿が人質として江戸に下る必要はない、との結論に至った。
淀殿が人質になる代わりに、豊臣家首脳部の織田有楽斎・大野治長がそれぞれ息子を人質として提出することになった。加えて、大坂方の将兵については、豊臣譜代衆・新参牢人衆を問わず、お咎めなし、と決した(以上、家康側近の林羅山が記したとされる『大坂冬陣記』による)。20日から22日にかけて、大坂方・関東方の間で使者が行き来し、豊臣秀頼と徳川家康・秀忠が誓詞(起請文)を交換し、和睦が正式に成立した(「土佐山内家文書」)。
和睦が成立した翌日の12月23日、徳川家康は堀の埋め立て工事を命じた。関東方は数日のうちに惣堀(惣構の堀、外堀)を埋め立てた。それに留まらず、関東方は二の丸・三の丸の破却に取り掛かった。