三成が自分の大義を語ったという俗説は作り話ではないか

俗話では、処刑される前の三成は、本多正純・福島正則らに面罵されて、自らの大義を堂々と語り返したという。また、小早川秀秋に対しては、怒気を露わにして非難したという。しかし、どれも三成という人物を図りかねた後世の作り話に過ぎない。

乃至政彦『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)

数日後、三成は何も語ることなく処刑場に連行されていく。そこでもうひとつ俗話がある。三成が喉が渇いたというので、番人が柿を差し出した。すると三成は「柿は痰の毒である」と断った。番人は笑った。「死に際に、健康を心配するのか」。しかし三成は言う。「大望ある者は最後まで諦めないものだ」。この時の三成を「限りなく正しく、限りなく下らない」と評する声もある。もちろん柿の逸話も後から作られたフィクションである。

東軍は別に政権が欲しくて戦ったわけではない。家康も秀吉の遺言に従い、公儀に尽くしてきたが、そのたびに痛い目に遭ってきたので、そこにこだわる気持ちはすでに薄かったであろう。義理は尽くした。

責任を負わされることを知っていた三成は何も語らず死んだ

そこで石田三成の処遇である。争乱の主犯は言うまでもなく、毛利輝元である。あとは会津の上杉景勝ではないか。彼らは細やかに密謀を凝らすことなく、ただゆるやかに連携していた。これをするどく責めたところで、家康にも日本にも利となることは何もない。ならば、捕虜となって死刑を免れ得ない東軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊えけいらに全てを押しつけるのが手っ取り早い。そしてそれは彼らも覚悟していたであろう。日本国内の争乱はそうやって解決されるのが当たり前だったからだ。

忠勝はこれから三成が無数の罪をなすられて殺されることを知っていたに違いない。三成も理解していたはずである。だから忠勝は両手をつき、三成は黙っていた。捕縛されてからの三成の言葉は、一次史料に一言も伝わっていない。

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