関ヶ原で使ったある武将の戦法

家康が3万2000の兵と共に、やおら腰を上げて江戸を発したのは、東軍先鋒隊によって、信長の嫡孫・織田秀信の岐阜城が落ちたのを確認した、9月1日のことでした。別に、秀忠を大将とする3万8000の徳川正規軍は、中山道経由で、上方へむかっています。

出陣前、上杉勢が、あるいは西軍寄りの“常陸の旗頭”(54万5800石)の佐竹義宣が、江戸へ乱入するかもしれない。

そうした懸念を、家康は抱きつづけていましたが、何事にも「機」というものがあります。なまじ時を過ごせば、先鋒として出撃中の東軍内の和が乱れ、せっかくの勢いが減少してしまうかもしれません。

東軍先鋒隊は岐阜城を落とした後、美濃赤坂(現・岐阜県大垣市)付近に駐屯しています。家康は、先鋒隊の主要メンバー=福島、黒田、加藤、細川、池田ら諸将の、徳川家への忠誠心を確認しつつ西上すると、9月14日に合流しました。

直ちに軍議を開き、その場で家康はこう言いました。

「大垣城を攻めるもよいが、一隊をとどめて防備に充て、本軍はまずは佐和山を攻め、さらに伏見、大坂に進撃する」

写真=iStock.com/MasaoTaira
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城を力攻めするには、10倍の兵力が必要とされています。また、大垣城攻めに時間を要して長期戦となれば、大坂城にいる毛利輝元が後詰に駆けつけ、背後を衝かれる恐れがありました。その際に秀頼までが奉じられて現れたとしたら、東軍の諸将の動揺ははかりしれません。

家康はこの時、浜松城からまんまと三方ヶ原に誘い出されて大敗した、信玄の戦法=己れの苦い経験を、そのまま真似たのでした。家康の学習成果といっていいでしょう。

戦う前に決着はほぼついていた

家康は間諜かんちょうを用いて、東軍が大垣城を素通りして佐和山方面へ向かった、とのウワサを西軍に流しました。

それが功を奏して、大垣城にあった西軍の主力は、城を出て関ヶ原へと移動を始めます(9月14日の夜)。

実はこの日、島津義弘が、家康本陣への夜襲を進言していました。

ところが三成は、

「あくまで正々堂々、白昼のもとで家康を倒す」

三成はこう言って、義弘の提案を退けていたのです。

家康が西軍の移動を知ったのは、15日午前2時頃のことでした。

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同じ頃、小早川秀秋の裏切りと、吉川広家へ工作して毛利軍の戦闘不参加の密約をとりつけた、との報告が、もたらされたようです。家康たち東軍も関ヶ原へ移動します。

午前8時頃、北・西・南へ「鶴翼の陣」の形を敷いた西軍に向かい合う形で、東軍は関ヶ原の東側に陣を敷きました。

盆地にたちこめた霧がわずかに散り始め、両軍の戦闘は、東軍の井伊直政・松平忠吉の軍勢による、西軍の宇喜多軍への発砲によって火ぶたが切られます。

そして、午後2時すぎには大勢が決着し、西軍はいつしか東軍の3分の1程度の兵力となって敗走しました。

(文責・プレジデント社書籍編集部)

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