自分で自分をどう見るか

杖をついて歩くブルーカラーの黒人男性が感じてもおかしくない、自分には価値がない、自分は人の目にとまらないという感覚にとらわれず、ずっと遠くを見ることができた。自分がなれないもの、自分が持っていないものには目を向けない。自分がだれで何を持っているのかを基準にして、自分の価値を測った――愛、コミュニティ、冷蔵庫の食べ物、背が高くてやかましいふたりの子ども、訪ねてくる友だち。それでしあわせだと思って、前にすすんでいた。父が意義ある人間だという証拠だから。

自分で自分をどう見るかがすべてだ。それが自分の土台で、まわりの世界を変える出発点になる。わたしは父からそのことを学んだ。父が人の目にとまる存在だったおかげで、わたし自身もそうなる方法を見つけられた。

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安定は自分のなかからやってくる

“自分で気分よくしてたら、だれかにイヤな気にさせられはしない”。父の格言を吸収して自分の人生にきちんと取りこむには、長い年月がかかった。ゆっくりと、途切れ途切れに、わたしは自信をつけていった。人とのちがいを抱えながら誇りを持って生きる方法を、本当に少しずつ学んでいった。

ある意味では、受け入れることからはじまった。小学校のどこかの時点で、わたしはクラスでいちばん背の高い女子であることに慣れた。だって、ほかに選択肢はある? のちに大学では、クラスやキャンパスのイベントで“オンリー”であることに適応しなければならなかった。

また同じ。選択肢なんてなかった。長年のあいだにわたしは、男性のほうが数が多く、たいてい女性よりも声が大きい場にいることに慣れていった。単純にそれがありのままの環境だった。

そして気づきはじめた。こういう場の力学を変えたければ――わたし自身のためにも、あとにつづく人のためにも、もっとちがいを許容する余地をつくって、そこに居場所がある人の幅を広げたければ――、まずはわたしが自分の足場を見つけ、しっかりと誇りを持たなければならない。自分を隠すのではなく、認めることをわたしは学んだ。