※本稿は、ミシェル・オバマ『心に、光を。 不確実な時代を生き抜く』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
誰にでも広い心で接した父
父は身体の動きがぎこちなく、足を引きずって歩いていたから、ときどき道端で立ち止まった通行人にじっと見られた。父は笑顔で肩をすくめ、よくわたしたちにこう言った。「自分で気分よくしてたら、だれかにイヤな気にさせられはしない」。
すばらしくシンプルな格言で、父には効き目があるようだった。父はたいていなんでも受け流すことができた。反発することはなかったし、激情家でもなかった。控えめで冷静で、だからこそみんな、しょっちゅううちにやってきては、父の意見や助言を求めたのだと思う。広い心で接してもらえるとわかっていたから。父は三ドルを折りたたんでシャツの胸ポケットに入れていて、お金を求める人がいたら、だれにでも二ドル渡す。かなり頻繁にそんなことがあったらしい。母によると、父は相手の自尊心を守るために三枚目の一ドル札をあえて渡さなかったのだという。父にお金を無心した人が、手持ちの現金をぜんぶもらったわけではないと安心して立ち去れるように。
他人の評価に煩わされない父の生き方
父は、他人にどう見られているかを気にしていなかった。自分に満足し、自分の価値をはっきりわかっていて、身体は不安定だったけれど心は安定していた。どうやってその境地にたどり着いたのか、その途上でどんな教訓を学んだのか、わたしには正確にはわからないけれど、他人の評価に煩わされずに生きる方法を何かのかたちで見つけていた。父のこの性質はとても鮮やかだったから、同じ部屋にいたら、離れたところからでもわかったにちがいない。それが人を引きつけた。それはある種のゆとりとして表に現れていた――特権や富から生まれるゆとりではなく、ほかの何かに由来するゆとり。それは、もがき苦しんでいたにもかかわらずのゆとりだった。不確かであるにもかかわらずのゆとり。内面からくるゆとり。
そのために父は目立っていて、あらゆる正しい意味で目に見えていた。