母親の誕生日
8月下旬。母親は68歳の誕生日を迎えた。
大切な日のみならず普段からおしゃれに手を抜かない母親はこの日を、薄化粧とルームウエアで迎えた。
「お店でお祝いをしましょう」という義母の提案をありがたく思いながらも、身体が思うように動かせない母親のために断り、自宅で祝うことに。
春日さん夫婦がちょっとぜいたくなお弁当やお総菜をデパ地下で購入すると、義両親はバースデーケーキを用意してくれた。
すっかり食が細くなっていた母親だが、大好物のウナギのお弁当とケーキは、いつもよりたくさん食べられた。
しかしその夜もその翌日も、母親はほとんど何も食べられなかった。体調を崩してから、2階のリビングに布団を敷いて寝ていた母親は、トイレに行くときなど、起き上がるのがとてもきつそうだった。そこで春日さんは、自分が使っていなかったベッドのマットレスを、母親の布団の下に敷いた。すると母親は「わあ、起きやすい! ありがとう!」と言って喜んだ。
そのとき春日さんは、母親も介護保険を申請し、介護ベッドをレンタルすることを思いつく。すぐに包括支援センターへ行くと、最短で4日後にベッドが届くことになった。
母親の誕生日から3日目の金曜日、母親に再び黄疸が出た。心配する春日さんに母親は、「月曜日が通院日だから大丈夫」と言う。春日さんは「土日でも変化があったら言ってね」と念を押し、その日は就寝した。
土曜日の朝、母親は家族と一緒にそうめんを一口食べた。日曜日、春日さん夫婦と娘は、義両親と義弟と夕食を食べに行く約束をしていたため、夕方から家を空ける。春日さんは母親のことが心配なうえ、娘はまだ8カ月なため、夜の外出は気が進まなかったが、随分前から約束していたことなので、今さらキャンセルすることははばかられた。
21時ごろに帰宅すると、母親が横たわったすぐ側に、父親が立って見下ろしている。母親は「おかえり」と言うものの、いつもに増して体調が悪そうなうえ、小声で「痛くてつらい。早くお父さんどっか行かせて」と切実そうに訴える。
「痛い⁈ 今から病院行く?」と春日さんがたずねると、酒臭い父親が「どこに行くんだ?」と口を挟む。するとうんざりした様子で「大丈夫。明日にする。お父さんはもういいから寝てよ」と母親。
すかさず父親は「なんでもうちょっと優しく言ってくれないんだ⁈」と大声を上げる。
「体調悪いから。そっとしておいてあげてよ」と春日さんが諭すと「なんで夫婦なのに話したらいけないんだ? なぁ! 2人で話すなよ‼ 無視するな‼」と父親はますますヒートアップ。
どうやら、春日さんたちが出かけてからというもの、1分と間を空けずにずっと父親は、
「体調悪いのか?」
「起きないのか?」
「ご飯どうする?」
「娘たちはどこいった?」
「娘たちはいつ帰ってくるんだ?」
と、繰り返していたようだ。
この日、春日さんと父親は、今までになく激しく言い争い、見かねた夫が珍しく助け舟を出しても、これまた珍しく「キミは黙ってろ!」と夫にまで声を荒らげた。結局父親は、母親が横たわるリビングに掛け布団だけ持ってきて寝てしまった。
この日、春日さんは、「お父さんを施設に入れなければ、お母さんの頭がおかしくなって死んじゃう」と真剣に考え始めた。