どこに沼地があったのか

池袋駅の東口(実は北口といった方が近い)に「いけふくろう」なる石像が設置されたのは1987(昭和62)年のことである。それまで「国鉄」と呼ばれていたのを「JR」と改称したのを記念して建てられたものである。「梟」の形をしているが、それはただの語呂合わせに過ぎない。その像の後ろに次のようにある。

「池袋」という地名の由来は袋のような盆地の窪地に多くの沼地があった。このような地形の印象から「池袋」というようになったのではないだろうかと言われている。この表現そのものは間違っているとは言えない。問題はその「沼地」がどこにあったかである。

池袋駅近くにはもう一つ「池袋」地名に関するモニュメントがある。西口を出て左手にあるホテルメトロポリタンの前に「元池袋史跡公園」という小さな広場がある。そこに「池袋地名のゆかりの池」という碑が立っている。その脇に「東京都豊島区教育委員会」の名でこう説明されている。

むかしこのあたりに多くの池があり、池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころから弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。

かつての「池袋」は現在の駅周辺ではなかった

この説明によれば、この一帯に多くの池があり、それが由来となって「池袋」という地名ができたことになる。しかし、これは到底受け入れがたい説である。なぜなら、現在の池袋駅周辺は東京23区の中でも最も高い地点にあり、標高33メートルの高台であり、そこに多くの池があったとは到底考えられないからである。

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高台であるにもかかわらず「池袋」という地名がついた謎を解く鍵は、昔の「池袋村」は現在の池袋駅周辺ではなく、ずっと北に行った地点にあったことにある。幕末に書かれた『新編武蔵むさし風土記稿』には「池袋村 池袋村は地高して東北の方のみ水田あり、其辺地窪にして地形袋の如くなれば村名起りしならん」とあり、さらに次のようにある。

戸数は129、東は新田「堀之内村」、西は「中丸村」、南は「雑司ヶ谷村」。南東は「巣鴨村」と少し接し、北は「金井久保村」に接している。東西は五町(約550メートル)、南北十三町(約1400メートル余り)。

つまり、「池袋村」は南北に長い村で、その位置は現在の池袋駅界隈ではなく、北に2、3キロほど行った所にあった。もうちょっと行けば中山道につながる位置だった。現在の町名で言えば「池袋本町三丁目」に「池袋氷川神社」がある。その神社一帯は地形が窪地になっており、かつては「袋状の池」であったことを推測させる。