ユーザー数が爆発的に増えた弊害

2000年代前半に、とてもダーティで差別的な書き込みが多くあったにもかかわらず、2ちゃんねるが集合知だと当時の文化人に称賛されていたのは、端的にネット社会の未来を過信する人が大半だったからです。

これは『2ちゃん化する世界』の第2章で詳しく書きましたが、当時の2ちゃんねるは「海賊主義」だったわけです。既存の倫理や法、利害関係や既得権益者を破壊し、それらの裏側をかいくぐりながら生き残っていくのだという考え方、アナーキーなある種のヒッピー主義が、2ちゃんねるの背景にはありました。

そこに通底していたのは、他者の自由を侵害しない限りにおけるあらゆる自由を尊重しようとする自由至上主義、いわゆる「リバタリアニズム」です。その限界が表出したのが当時の2ちゃんねるだったのだと思います。

同時に初期の2ちゃんねるは、ネットリテラシーの高いいわば「ひねくれもの」、つまり嘘を嘘として見分けながら楽しんでいる人が使っている場所だった。ところが、iモードの登場などによりネットユーザーが指数関数的に爆発し、リテラシーが高くない人たちも巻き込まれていったとき、虚構をリアルだと信じてしまったり、虚構であっても感情のなかでリアルであれば、かまわないという人が大量に現れたというわけです。

連邦議事堂襲撃事件は、その末路だとも言えます。

「第2の宗教改革の時代」に突入している

現代のインターネットは、宗教改革期のような時代に置かれているのだと思います。

マーシャル・マクルーハンはその代表作『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』(みすず書房)で、活版印刷技術と宗教改革の結びつきについて、述べています。

要はこういうことです。

かつて聖書というのは、司祭が独占していた。一般の信者は聖書なんて持っていないですし、そもそもラテン語で書かれていて、読めなかった。こうした状況が、活版印刷技術の普及により、大きく変わったわけです。現地の言葉で出版・頒布できるようになり、誰もが読めるようになった。こうして活版印刷技術の普及が宗教改革に結びついたというのです。

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現代のインターネットの状況もこれと非常によく似ています。かつてテレビや新聞といったマスメディアが独占していた「発信」を、YouTubeやSNSを通じて誰もが手軽に行えるようになった。誰でも発信できて、大量にアップロードできて、しかも自由に意見を述べて、視聴者・読者も自由に選択できるようになったわけです。そして、誰もが発信できるようになったがゆえに、これまで既存の権威が保っていた発言の質や中立性が担保されなくなっている状況でもあるのです。