世間からズレた感性を持つ人の避難所
キャリーバッグは、内部にものを入れて持ち運ぶための道具である。つまり「容れ物」である。
保利は世間一般の価値観からズレた感性を持っている。たとえば、エレベーターという直方体の容れ物のなかで唐突にプロポーズして広奈の不興を買い、美しい夜景に感動する彼女に「あれ電球だよ」と言って冷や水を浴びせる。その後、自室に移動した際には、広奈から水槽という直方体の容れ物のなかにいる転覆病の金魚になぞらえられて「かわいそう」と言われてしまう。「かわいそう」は、映画の第一章で湊が母親から言われていたのと同じ言葉であり、この二人がいずれもマイノリティとしての性質を有していることを示唆する。
誤植を見つけるという保利の密やかな趣味の世界は、保利にとっての安全圏なのかもしれない。外界の煩わしさから解放される自分だけの小さな世界。自室という容れ物のなかでその趣味に没頭しているあいだは、たとえどんなに気味の悪い笑顔を浮かべていようと、他人からとやかく言われることはない。自分のことを暴力教師として告発する週刊誌の記事さえ、保利は誤植探しの対象にしている【図2】。それは現実世界と折り合いをつけるために彼に許された数少ない手段なのである。
そのように考えると、保利の趣味と密接に結びついたキャリーバッグは、持ち運べる安全圏と言えそうだ。すなわち、彼にとってお守りのようなものである。彼が突然プロポーズを思い立ったエレベーターや、飼育している金魚の水槽も(学校には職員室の水槽でチンアナゴを飼っている同僚教師がいる)、同様に直方体によって外界から隔絶された世界である。
広奈の目にプロポーズには不適当な場所と映ったエレベーターは、保利にはむしろこのうえなくふさわしく感じられたのかもしれない。賃貸マンションの一室である彼の自宅もそのような直方体に類する場所であり、嫌がらせによってその安全性を脅かされた彼は、引っ越さざるをえなくなる。
エレベーターにしろ、水槽にしろ、自宅にしろ、そこで保たれている安全性はかりそめのものでしかない。趣味の世界にしても、ずっとそこにとどまっているわけにはいかない。それでも人が生きていくためには、たとえ錯覚であるにしても、本人が安全を感じられる一時的な避難所がおそらく必要なのである。
坂元裕二の脚本からカットしたシーン
直方体状の空間は人々に安心感をもたらす一方、ときに人々の安全を脅かすこともある。外界から隔絶されているというのは、守られていると同時に、逃げ場がない状況でもあるからだ。
厳密には直方体とは言えないが、車もそのような場所になりうる。映画の第一章で、湊(黒川想矢)は母親の早織(安藤サクラ)が運転する自家用車から飛び降りる。直接の理由はクラスメートの依里(柊木陽太)から電話がかかってきたことであるが、ちょうどそのとき、早織は湊に「普通の家族を持ってほしい」という自身の願いを伝えている。自分が同性愛者かもしれないと思っている湊は、母親の言葉に応えることができない。彼は走行中の車という密室から逃げ出すようにして飛び降りるのである。
第三章の冒頭で伏見(田中裕子)が訪れる拘置所もまたそのような場所である。彼女は湊と依里が通う小学校の校長を務めている。伏見は接見室で夫と面会する。夫は自らが運転する車で誤って孫を轢き殺したために勾留されている(ただし、じっさいに運転していたのは伏見であるという噂も囁かれる)。
監獄は確かに外界から隔絶された空間であり、考えようによっては安全が保証されているとも言えるが、代償として著しく自由を制限されている。もちろん、そこから自らの意志で出ていくことはできない(その意味では金魚と水槽の関係に似ている)。
接見室を仕切る透明なアクリル板は、文字通り伏見と夫を分断する。二人の会話は終始なごやかな雰囲気のうちに進んでいくが、直接触れ合うことは許されていない。このシーンでは、伏見が折り紙で船を折っていることが重要な意味を持つ。
映画からは削除されているが、坂元裕二の脚本には、伏見が亡くなった孫と北海道でフェリーに乗ったときのことを湊に語る場面がある(逆に、接見室で伏見が折り紙の船を折るという描写は脚本にはない)。このエピソードは、主人公の名前が「湊=港」であることと響き合う。