「運動ギライ」を量産する現在の体育授業

だが現実に目を向ければそうではない。競技力の向上が目的化した体育を苦痛に感じる「体育ギライ」は後を絶たず、それが高じて運動そのものを毛嫌いする「運動ギライ」を生み出している。学習指導要領にある「生涯にわたって運動に親しむ資質」を育てられていない。それどころか運動から目を背ける態度を身に付けてしまっている。運動とはしんどくてつらいもので、できることなら避けたいと望む人たちを量産している。

原因はいくつか考えられる。そのなかからひとつ挙げるとすれば「到達目標の高さ」だ。

たとえばボール運動では、「ボールを持たないときの動き」の習得が求められる。バスケットボールの試合では、往々にして経験者や生来の運動好きな子供たちだけでパスをつなぎがちだ。その傍らには、ただ立ち尽くすしかできない子供が少なからずいる。その子供は、「ボールを持たないときの動き」ができないからパスがもらえない。だから、この動きを身に付けるべく指導を行うようにと学習指導要領には記載されている。

体育で求める技能のレベルが高すぎる

理論的にはその通りである。異論はない。ただ、バスケットボールと同じゴール型のラグビーを長らく続けた私からすれば、違和感がある。いささか難し過ぎやしないかと思うのだ。

主にパスを受ける役割を担うウイングというポジションを務めていた私は、この「ボールを持たないときの動き」を競技人生の19年間を通じて高め続けた。おおよそどのようなプレーヤーからでも効果的なパスがもらえる程度にまで熟達するのには、10年ほどを要した。だからこの技能を1時間弱の単発の授業を重ねるだけで習得できるとはどうしても思えない。部活動ならまだしも、体育において求められる技能としてはハードルが高過ぎる。

そもそもパスプレー自体が、とても難しい。

写真=iStock.com/recep-bg
※写真はイメージです

パスの出し手は、ダーツのように静止した的に当てるのとは違い、相手からのプレッシャーを受けながら複数いる味方の動きを予測しつつ、タイミングを見計らって強さや方向を調整しなければならない。また受け手は、ボール保持者の挙動を気にかけつつ、攻撃を阻む相手の陣形を見定めて空いたスペースへと移動し、ここぞというタイミングで声をかけなければならない。つまり出し手と受け手の身体的コミュニケーションが成立しなければパスはつながらない。