徳川秀忠が2人の大名に申し付けた切腹も男色が原因か

寛永3年(1625)正月、徳川二代将軍・秀忠は、吉祥寺において成瀬豊後守と小山長門守に切腹を命じた。

「徳川秀忠像」(画像=松平西福寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その原因は「秀忠公御寵臣」の長門守と豊後守が「衆道知音(男色の関係)」したことにあった。

秀忠も初犯のときだけはこれを許した。両人に使者を二度遣わして、内々に注意したのだ。しかしその後も関係が続いたため、上意に背いた科で切腹させざるを得なくなった(『元寛正説』)。

もちろんこれも事実かどうかは不明である。

系図や史料によって切腹の原因が違っており、実否の確認が難しいのだ。男色は数ある原因のひとつに過ぎない。

過去、秀忠に供奉した際、抜け出して女院の侍女と酒宴を楽しんだことが発覚したと記すものもあれば、派閥争いに巻き込まれたとする現代人の解釈もある。

背後に何か政治的事情があったというのは、ありそうな話だが、江戸時代にそんなことを書くのは勇気がいる。

事件の裏を隠蔽するのに、男色はアリバイとして扱いやすかったことだろう。

後世の史料で男色は「傾国の物語」として誇張された

こうした理解の根拠とされる事例は、多くが二次史料を出典としており、確かな事実確認がされているわけではない。

二次史料とはのちの時代になって書かれた記録のことであり、主として江戸時代に入ってから作られた軍記や家譜、系図、由緒等がこれにあたる。戦国時代が終わって数十年ないしは数百年も経ってから書かれた記録を、そのまま史実と見なすことがどれだけ危ういかは説明するまでもないだろう。

しかも男色に関する二次史料を眺めると、主従の武家男色を肯定的に集まっているものは意外なほど少なく、多くは「傾国の物語」をにおわせる筋書きで、佞臣や無能者が功もなしに出世して、御家の前途を狂わせる設定にされている。後世の史料に見える男色は、書き手の思想や都合によって後付けされた創作の産物である疑いが強い。

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