「あっけなかったな…」

正月公演を終えたばかりの二月の寒い日だった。

新幹線のホームにぽつんと四人だけで立っている光景が、今でも彼女の胸には残っている。そのなかで、サーカス以外の「社会」を知っているのは彼女だけだった。テント村での大勢の人々との暮らしから離れてみると、そんな四人の「家族」はあまりに弱々しく、心許ない存在だった。

写真=iStock.com/Thomas Bullock
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大きな荷物を持った美一さんと駒一さんと子供たちは、そのまま新幹線に乗って出発した。

北へと向かう列車の車窓を眺めながら、美一さんは泣かなかった。

そのかわり、

「あっけなかったな……」

と、思った。

でも、と彼女は続けて思うのだった。

それは、これまでわたしがあっけない別れをしてきたから、そういうふうになるんだ――。

「もっと一人ひとりに寄り添っていければよかったのかもしれないけれど、その頃のわたしは幼かったし、世間知らずだったし、自分自身のことで精いっぱいで、生意気で、協調性もなかった。だから、そういうふうにしてきたら、そういうふうに扱われて当然だよね。自分が人に対してそうしてきたように、自分もされていくんだよね」

何かに憑かれたように部屋の模様替えを始めた

弘前に帰った美一さんは、ひとまず母親の勤めていた自動車修理工場の仕事を手伝うことになった。この14年のあいだに、母は一年間だけ水商売をして貯めた資金で弁当の仕出し屋を始めたが、しばらくして店が火事になった。商売を失って困り果てていたとき、雇ってくれたのが知人の自動車修理工場の社長だった、という。

一方の駒一さんは電気工事の会社で働き始めた。キグレサーカスでも「場越し」の度、施設の電気関係の作業を担当していた経験を活かせる仕事だったからだ。

美一さんが「サーカスで育った子供」の困難を知ったのは、弘前での生活が始まって二カ月程が経ったときだった。

深夜、彼女が子供たちと寝室で寝ていると、アパートの別室からどたん、どたんという音が聞こえるようになった。眠い目をこすりながら襖を開けると、駒一さんがタンスや机などを動かしていた。

駒一さんは最初、新しい生活と仕事に適応しているように見えた。ところが、しばらくすると、彼はどこかそわそわと落ち着きがなくなり、部屋の模様替えを何かに憑かれたように始めたのだった。そのような「発作」は模様替えを終えると一度は収まるものの、また二、三カ月が経つと再び模様替えをせずにはいられなくなるようだった。

ちょうどサーカスでの「場越し」の間隔で彼がそれをしていることに気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。弘前に来てから一年半ほど、その「場越し」代わりの模様替えが続いたのだった。

「一つの閉じられた世界で生まれ育った人は、ご飯を食べる術をそれしか知らない。じゃあ、そうやって育った子供たちが大人になって、そのまま外に出たらどうなるか。お酒の自動販売機の前で、倒れて死んでいたという人もわたしは知っている。後に孤独死をした駒一だって同じようなものよ。たぶん、彼はぜんぜん幸せじゃなかったと思う」