麻布・開成は公立の「滑り止め」の時代に

1910年をすぎるころ、経済状況の悪化によって、私立中学の経営が逼迫ひっぱくする。倒産した学校もある。生き残るためには、財源を学費に求めるしかない。多くの私立中学は学費値上げに踏み切らざるを得なかった。

18年、第二次高等学校令の公布によって、旧制高校は文科、理科に分けられるなど、その性格を変えていく。一高の第三部(医科、薬科)は理科となり、ドイツ語受験枠がなくなったことで、獨逸学協会中学校からの合格者が減少した。

「第二次高等学校令の公布」(1918年)によってランキングから外れた独協(出典=『改訂版 東大合格高校盛衰史』より)

この時代、高学歴を望む層が拡がり中学校への進学熱が高まったことに対応するため、各地で公立中学が次々と誕生している。

東京府では、19年府立第五中学校(小石川中等教育)、22年六中(新宿)、七中(墨田川)、23年八中(小山台)、28年九中(北園)、36年十中(西)と続き、43年までに二十三中(大森)まで作られた。

元号が大正から昭和に変わろうとしていたころ、受験生は学費が高くなった私立を敬遠して府立を選ぶという傾向が強まった。東京は私高公低から公高私低に逆転してしまう。

学費が安い公立が増えたことで、私立は優秀な生徒を奪われてしまう。当時の中学入試は3つの時期に分かれていた。たとえば受験生は第1期で公立、第2期が麻布、開成などの私立、第3期でその他私立を受けた。麻布、開成は一中、四中受験に失敗した生徒が入った。

第一神戸中(神戸高校)から130人も入学

1934~42年の一高入学者累計をみると、第一神戸中学(神戸高)130人、大阪府立北野中学(北野)20人、京都府立第一中学(洛北)20人、京都一中、北野中は地元の第三高等学校(現、京都大学)に多く進学したのに対し、第一神戸中学は三高よりも一高という意識が強かったようだ。なぜだろうか。

神戸には芦屋や六甲在住の裕福な家庭が多く、子供を東京へ送り出せるだけの経済的余裕があった。一高に通う第一神戸中学出身者が後輩を次々に呼び寄せた、などの背景が考えられる。