しかし加藤は、近親婚のことが頭をよぎった。医師は近親婚の可能性は確率的にゼロに近いというが、AIDで生まれた人にはその悩みがつきまとう。「確率の問題ではありません。ぼくには相手が遺伝的な姉妹ではないという確信を持つことができないのですから」。医師は加藤に、慶應大学の3年、4年、5年、6年の学生から集めていた、と言ったという。
「当時はまだ凍結が主流ではなく、生の精子を使っていたとすると、信濃町校舎の現役の学生4学年(3~6年生)が対象になります。だからぼくは、女性と付き合うときに、常に自分との年齢差が4歳以内の人は避けるようにしています」
実際、イギリスで2008年1月に、別々の家の養子となったAIDで生まれた双子の男女が血のつながりを知らないまま結婚、その後、双子とわかり裁判所から、「近親婚」にあたるとして婚姻を無効とされたケースが報告された。2人は「双子とは知らなかった。お互いに避けがたい魅力を感じた」と結婚した理由を話しているという。
米コロラド州にある「Donor Sibling Registry」(Siblingは兄弟姉妹の意。以下、DSR)というサイトを主宰するウェンディ・クレーマーはAIDで子供を出産した。その後、子供から異母きょうだいに会いたいと言われたことがきっかけとなってサイトを立ち上げた。「このサイトはAIDで生まれた子供が兄弟や姉妹に会うためにつくりましたが、中には同じ精子提供者から75人もの兄弟姉妹が生まれていることがわかったケースもあります」。知らないうちに、自分と血のつながった人間と結婚してしまう可能性は否定できないと言えよう。結婚する前にDNA検査をすれば済むことだと簡単に片づけられる問題ではない。
AIDを行った医師に会いに行ったものの、加藤にはどこか「笑ってごまかされた」との思いが残った。結局、自分が一番知りたいと思う情報、つまり自分の生物学上の父親は誰なのか、という情報について医師は完全に口をつぐんでいる。その代わりに、AIDで生まれた他の人から来た手紙の一部だけを見せてくれた。「先生のおかげで生まれてきたことに感謝しています」。他には何が書かれていたかはわからない。AIDで生まれた子供にとって、「この世に生まれてきたことに感謝せよ」と言われることが最も残酷であると加藤は苛立ちを込めて言う。「そう言われると、それ以上議論できないから、前に進まない」