その魅力は、なんといっても低い声
小学生の頃はうちにあった軍歌のLPを聴いていた。「歩兵の本領」と「戦友の遺骨を抱いて」がベストツーである。中学生時代はビートルズとレッド・ツェッペリンとグランド・ファンク・レイルロードとCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)と牧伸二(音楽漫談)を聴いた。高校に入ってからはユーミンと山下達郎とソウルミュージックである。大学に入ってからは中島みゆきと大瀧詠一とピンク・レディー。
社会人になってからは音楽を聴かなくなった。中年になって以降、CKB(クレイジーケンバンド)とクラシック音楽だけを聴いている。縁がなかったのは演歌、エルビス・プレスリー、ロカビリーだろうか。つまり非常に支離滅裂である。
そんなわたしが高倉さんのCDを聴いて、どう思ったか。
旋律やリズムといった楽曲の魅力ではない。声だ。なんといっても声。低く抑制された声に惹かれた。
歌声というより、コントラバスの響きのようだった。低音の声が耳を通って腹に来る。ボリュームを大きめに調整して聴くと、マッサージを受けているような気分になる。そして、CDのなかでどれがいいかと言われれば映画の主題歌だ。
「時代おくれの酒場」。『居酒屋兆治』で最後に流れる佳曲である。
みんなの心に届くように語っている
原曲は加藤登紀子さん。しかし、高倉バージョンは加藤さんの原曲とはかなり違う。テンポが遅くなり、語りのようにも聞こえる。
歌っているというより高倉健が語っている曲だ。
かつて森繁久彌さんは和田アキ子さんにこう教えた。
「歌は語れ。セリフは歌え」と。
高倉健の歌は語りだ。
前述の楽曲解説には「時代おくれの酒場」について、こうある。
「おあつらえむきに『時代おくれの酒場』の歌詞は男の視点から書いたものだった。加藤版『酒場』はちょっとデカダンな2フィールのバラードだったが、高倉が歌えば、モンマルトルの丘から函館の裏路地へ舞台が早替わりするといえばいいだろうか、歌声に風雪に耐えるような詩情がにじみだす。『時代おくれ』という言葉が郷愁よりむしろ確信めいて響くのは役者人生の重みが加わるからか。
時代はこのときすでに八〇年代に入り、昭和も暮れかかっていた。『居酒屋兆治』で奇妙な存在感を放っていた細野晴臣のいたYMOは散開し、忘れがたいコメディエンヌぶりを発揮した、ちあきなおみはポルトガルのファドに新たな表現をもとめていた。いうまでもなく時代は変わる。変わるのだが、しかし誰の心にも孤塁に似た想いは残るであろう、高倉健の歌は聴く者にそのような確信を抱かせる。誰もそれを止めることはできない」
誰の心にも孤塁に似た思いを抱かせるのは、それは高倉健がみんなの心に届くように語っているからだ。