「慈悲的性差別主義」を求めるジェンダー論者たち

国連女性機関は「女性はかわいそうな存在なのだから」「女性は弱い存在なのだから」「女性を守ってあげるのは男の役割なのだから」といった、男に“強さ”を要求する旧来的なマッチョイズムのいいとこ取りをする、いわゆる「慈悲的性差別主義」をいつもと同じ調子で要求していたに他ならない。

こうした要求に対して、令和最新版ジェンダー平等思想のアップデートをすでに完了させていた男たちは「いつまで甘えたことを言ってんだ?」「これまで男に負わせていた負荷をお前ら女も負えよ。それが男女平等だろ?」と、とくに悪意や差別意識を持たず“素直”に違和感を覚えてしまうのである。

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一部のフェミニズム・リベラル系の有識者や言論人やインフルエンサーによって繰り返し行われてきた、SNSやメディアを通じた「啓蒙」がしっかりと成功しているからこそ、世の男たちは「有害な男らしさ」から降りた。それと同時に「有害な男らしさ」のなかに含まれていた有益性(≒男らしく女性を守り大切に慈しむことをよしとする規範)からも同時に訣別することになったのだ。

もっとも、国連女性機関をはじめとするフェミニストが世の男性に求めていた「男女平等」とは文字どおりの男女平等ではなく、いうなれば男性が持っていた「男らしさ」のなかで、女性にとって不快で有害に感じる《よごれ》だけを丁寧に除去して、女性にとって快適で有益な部分だけをより高純度で残すことを指していた。

しかしながら、そのような思惑は成就しなかった。良いとこ取りはできなかったのである。男たちはたしかに「無害」になっていったが、しかし同時に女性にとって「有益」でもなくなってしまったのだ。

これまでなら「必要不可欠な犠牲」として黙って引き受けていた男性の自殺者数の多さにも、労災死傷者数の多さにも、もはや黙らなくなってしまった。「女も男並みに(この社会を正常稼働させるための)求められてきた社会的リスクや犠牲を引き受けて」と要求するジェンダー平等意識の高まった男性たちが続出しているのである。

アップデートされた男たちは、相手が女性だからといってやさしくしないし特別扱いしないし配慮しない。ただしそれは女性蔑視や女性差別ではなく、あくまでフェアネスを遵守する思いからからそうしているのであって、これを見たフェミニスト側が「悪しき性差別主義の発露だ!」などと断じてしまうのであれば、いままで大真面目に提起されてきた男女平等の議論はいったいなんだったのかということになる。