孫文の日本亡命が中華学校設立のきっかけとなった

僕の出身地の近くにある東京都文京区の白山神社の境内には、孫文のレリーフをはめ込んだ石碑が建っている。

日清戦争終結後の1895年(明治28年)11月、広州起義に失敗した孫文は、日本に亡命し、東京の平河町や早稲田鶴巻町でくらした。1910年(明治43年)頃には辛亥革命の支援者だった宮崎滔天とうてんの家に身を寄せており、この屋敷が白山神社にほど近い小石川原町(現在の白山四丁目付近)にあった。

亡命時、孫文は横浜で馮鏡如らと会見し、このとき設立されたのが大同学校である。1899年(明治32年)に正式な開校式がとりおこなわれ、犬養毅が校長に就任した。

「当時の中華街には小さな私塾があるだけで、しかも孫文にしてみれば古い教育をおこなっていたわけですね。その孫文の思想にもとづいて広東語で授業をする学校としてつくられたのが大同学校でした。ただ、創立当初から内紛が多く、犬養毅を校長にしたのも、『犬養さんを立てておけばうまくおさまるだろう』と考えたからでしょう」(関廣佳さん)

こうした内紛によって、大同学校のほかに華僑学校、中華学校も創立されることとなった。

やがて辛亥革命が勃発し、横浜の中国人コミュニティも大陸派と革命派の二派に分裂、清国総領事館は中華民国総領事館へと姿を変えた。

大陸派と革命派を融和させた関帝廟の火事と再建

そんななか、1923年(大正12年)に関東大震災が発生。中国人コミュニティは団結して、まちの復興に乗り出す。故郷へ亡骸を送り返したことに象徴される「落葉帰根」の時代から、その地で根をはって生きていく「落地生根」の時代への幕がひらいたのである。

佐野亨『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)

全壊した校舎を再建する過程で、大同、華僑、中華の3校が合併し、横浜中華公立学校が開校。空襲で倒壊したのち、1947年(昭和22年)に横浜中華学校として再建された(1968年に横浜中華学院に改称)。

そして、東西冷戦のさなかである1952年(昭和27年)、中華民国駐日代表団が中華人民共和国を支持する華僑の教師と子弟を学校から追い出す「学校事件」が発生する。翌53年、大陸派華僑は横浜山手中華学校を新設することとなった。

こうした変遷をとおして並存してきた2つの学校と二派の横浜華僑がにわかに融和へと向かっていったのは1980年代以降のことである。

「大きなきっかけは、1986年(昭和61年)に起きた関帝廟の火事ですね。関帝廟は震災と空襲でもつぶれているので、1990年(平成2年)にできた現在の廟が四代目なんですよ。横浜だけでなく、東京や大阪、神戸の華僑が協力して再建のために6億円もの資金を捻出しました。学校事件に関係していた連中も『じぶんたちが元気なうちに建て直そうよ』と言って一丸となったんです」(関さん)

壊滅から復興へ――この繰り返しのなかで、横浜の中国人コミュニティも大きく揺れ動いてきたのである。

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