人々の注目を浴びたことで、天下祭における附祭は豪華で派手な余興となった。当番町どうしの競争心が、その傾向に拍車を掛けたのは間違いないのである。
江戸の華にふさわしい天下祭の賑わい
御徒の山本政恒は神田祭だけでなく、山王祭もリアルタイムで見物しており、その光景も以下のように書き留めている。
山本が書き留めた山王祭の光景は、三部構成のうち附祭のパートであった。
祭礼を監督する立場にある町年寄たち町役人は袴を付けて脇差を差すなど、武士のような格好をしていたが、若い衆たちは揃いの服で派手な格好だった。
出し(山車)を曳く鳶の者が木遣り歌を披露し、踊り子や三味線を弾く演者たちが歌舞音曲を披露する姿が浮かび上がってくる証言である。山車に先立って、男装した華やかな芸者たちの行列が彩りを添えた様子も分かる。町ごとに、祭礼行列の参加者に飲食物を補給する者も付いていた。
幕府の規制は空文化していった
山本が鮮やかに描写したように、天下祭では江戸の華にふさわしい光景が繰り広げられたが、となれば祭礼費用が増大するのは必至だった。
天下祭は幕府主催の祭礼としての顔も持っていたのだから、あまりに華美なものとなるのは好ましいことではなかった。費用の増大も心配だ。
そこで、幕府は規制に乗り出す。祭礼費の助成という形でその尻拭いを求められることも懸念しただろう。
とりわけ享保・寛政・天保改革では贅沢は敵とばかりに、華美な祭礼は格好の取り締まりの対象となる。附祭での出し物の数を減らすなどして祭礼費の削減をはかったが、改革の時期が終わると、幕府の規制も緩んで元の黙阿弥になるパターンを繰り返したのである。