平和条約に調印しなかった国々との決着

対戦国との「終戦」の問題について、もう少し掘り下げてみたい。

日本政府は、サンフランシスコ平和条約に調印(批准)しなかった/できなかった国々――ソ連、中華民国、中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、フィリピン、ビルマなどとは、個別に外交交渉を進めていく。戦後賠償をODA(政府開発援助)に代替させるなどして、外交関係の樹立や平和条約の締結を進め、各々と「終戦」を結実させている。

たとえば、日本と中華民国の場合、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効と同日に、日華平和条約が締結された(図版1)。第1条には、日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日(8月5日)に終了すると明記されている。

ところが、1949年に大陸の「中国」を継承した中華人民共和国との関係は未定のまま。のちに冷戦下の米中宥和ゆうわの流れのなかで、1972年9月29日に中国とは日中共同声明が調印され、国交が結ばれる。図版2の記事には「戦争終結を確認」という言葉が見られる。日中共同声明によって、ようやく日中両国の「不正常な状態」=法的な戦争状態が終了したのである(川島真・貴志俊彦編『資料で読む世界の8月15日』)。

図版2:日中平和友好条約締結の記事 1972年9月29日(出所=『帝国日本のプロパガンダ』)

いまだに“停戦状態”が続いている国がある

同時に次のようにも考えられる。

貴志俊彦『帝国日本のプロパガンダ』(中公新書)

日本は1945年に片務的に「終戦」を唱えたものの、中華人民共和国は建国の1949年から20年あまり、日本との関係を停戦状態にあると認識し、有事の準備を怠っていなかった。

中華人民共和国に限らず、サンフランシスコ平和条約に調印(批准)しなかった国々は、日本との間で平和条約を調印するまで、いずれも同様な認識を持っていたとも考えられる。朝鮮民主主義人民共和国とは、いまだに停戦状態がつづいている、といえようか。

さらに、沖縄の場合を見てみよう。沖縄の「終戦」は、日本本土よりも早く、1945年9月7日に宮古島の第28師団の納見敏郎中将、奄美大島の陸軍少将高田利貞、海軍少将加藤唯男らが米軍に対して降伏文書に署名したときだといわれている。しかし、1972年5月15日に日本への本土復帰を果たすまで、米軍による軍政統治がつづく。