左遷されても絶望しなかったのは世界史を知っていたから
僕自身の体験でいえば、最初に働いていた会社で将来の企業方針について、トップと異なる企画を考えていたことが引き金となって、まったく別業種の会社に異動させられたことがありました。
正直なところ適材適所ではないと思いましたが、そのときの僕を救ってくれたのは、世界史の知識でした。実に多くの優秀な政治家や軍人が、理不尽な理由で左遷されたり殺されたりした事実を知っていたからです。それに比較すれば自分のケースなど、ささいなことだと思ったからでした。
僕が体験したような勝算のない異動でも絶望しないためには、世界の知恵を広く深く身につけておくことだと思い、このような体験を話しました。理不尽な状況に置かれても自分を失わないタフネスは、豊富な知的財産から生まれると思います。換言すればそれが、最善の仲直りの仕方を導いてくれるのではないでしょうか。
平和条約ワースト・ワンはヴェルサイユ条約
世界史の大きな戦争の後で、立派な平和条約が結ばれた例は残念ながら少ない。本著を読んで頂くと、そのことに気づくと思います。逆に悪しき例はたくさんあります。その中でワースト・ワンといえば、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約かもしれません。
自ら提案した「14カ条の平和原則」を、会議の主題にしようと考えていたアメリカ代表のウィルソン大統領、ドイツに対する怨念だけに凝り固まったフランス代表のクレマンソー首相、自国の利害だけ考えていた大英帝国代表のロイド・ジョージ首相。考えてみると、英仏米の3カ国首脳は、戦争全体の総括と敗戦国の罪状の分析そして敗戦国民の心情の理解など、戦勝国側が検討すべき項目についてどこまで追求したのか。その点に大きな疑問が残ります。
これでは戦争後の効果的な平和条約など、構築できなかったのは当然ではないか。
その結果として締結されたヴェルサイユ条約は、ヒトラーを生み出す最大の原因となってしまいました
逆に優れた平和条約として記憶すべきひとつに、澶淵の盟がありました。軍事力は強大ですが文明に遅れを取っているキタイと、圧倒的な文明大国であった宋が結んだ条約でした。宋が兄となりキタイが弟となるODA型の同盟として、今日的意味でも評価されています。両国はこのシステムで、300年の平和を築きました。
さらに付記しますと、ヴェルサイユ体制の反省の上に立ち、第二次世界大戦後、今日の世界体制を支える国際連合とIMF・世界銀行を設立した人物として、フランクリン・ルーズベルトを忘れたくはありません。