琉球処分は戦後も今も続いている
琉球処分後も、王府上級士族の特権は温存された。琉清関係を断ち切るためである。県になっても上級士族の特権が保障されれば、彼らの中国依存の体質を改められると考えたのである。切り捨てられた下級士族は路頭に迷った。慣れない士族商法で失敗する者も多かった。その一部は救国運動に希望を託していたが、農村に移住して原野を開墾したりした。その集落を屋取(ヤードゥイ)集落という。
歴代の沖縄県令は旧慣温存策をとった。沖縄では近代日本へ転換するための土地改革である地租改正が遅れ、起業のための国立銀行の設立がもっとも遅れた県となった(第百五十二銀行)。近代化に遅れた県政のまま昭和の戦時体制に入り、県土は焦土と化し、県民の4分の1が、日本史上はじめての地上戦で犠牲になった。
戦後の米軍政27年という長い「アメリカ世(ユー)」では、経済は米軍に依拠せざるを得なかった。基地建設の土地収用法が、日本本土の米軍基地がかつて帝国日本の基地が転用されたことと違っているのは、民間の土地を接収したことにある。軍用地代に依拠せざるを得ない経済体質を生んでしまった。
琉球処分は戦後も今も続いている。沖縄の振興開発費約3000億円、在沖米軍基地維持のための「思いやり予算」の現実を直視しなければならない。沖縄海洋博の建設ラッシュのとき、大きな利益は本土の大手企業に落ちたという地元企業の苦い経験がある。