憲法学者の陰謀論めいた「絶対平和主義」説
ところがほとんど陰謀論者めいた憲法学者のイデオロギー的解釈によって、本来の憲法の国際協調主義的は埋没させられることになった。
連合国軍総司令部(GHQ)総司令官であったダグラス・マッカーサーは、回顧録において、次のように述懐した。「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげていない。……第九条は、ただ全く日本の侵略行為の除去だけを目指している。私は、憲法採択の際、そのことを言明した。」
ところが憲法学者は、マッカーサーは冷戦の勃発によって態度を変えたのだ、と主張する。当初は、国際法から乖離した絶対平和主義を標榜していたはずだ、というのである。その根拠は、いわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれる憲法草案起草を部下に命じた際の走り書きだけである。
しかし、単なる走り書きの内部メモの文言を拡大解釈させて憲法解釈の指針とまでしてしまうのは、全く不適切である。マッカーサーは、部下たちが国際法に合致するように文言を整備した憲法草案に、何も異議を唱えていない。
憲法学者は、憲法9条の冒頭に国際協調主義の前文の趣旨を確認する文言を挿入した芦田均(憲法改正小委員会の委員長)を、憲法9条を捻じ曲げる姑息な行動をとった人物だと非難したうえ、その画策は憲法学通説によって打ち破られたといった「物語」も広めている。
だが、憲法そのものの一貫した趣旨を明確にしようとした芦田が、なぜ非難されなければならないのか。根拠のない解釈を「憲法学者の大多数の意見だ」という理由で押し付けようとする、憲法学者のほうが横暴なのではないか。
日本国憲法は国際法上の自衛権を否定したのか
1946年に憲法案が審議された際、共産党の野坂参三議員が、新憲法は「自衛戦争」を認めないのか、という質問をしたのは有名である。これに対して当時首相であった吉田茂は、次のように答えた。
「私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戦争は多く国家防衛権の名に於て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思ふのであります」(第90回帝国議会 衆議院 本会議 第8号 昭和21年6月28日)
これをもって憲法学者は、吉田は国際法上の自衛権を否定し、絶対平和主義をとっていた、などと主張する。「自分は国際法上の自衛権を否定したことはない」という後の吉田の説明を、憲法学者は否定する。
だがこれは、国際法の概念構成を無視した、悪質で不当な糾弾である。そもそも質問者の野坂が、憲法は「自衛戦争」を認めているのか、と聞いた時点で、戦前の日本の軍部が自己正当化の道具として用いたあの「自衛戦争」を、憲法は認めているのかという問いになってしまっている。
戦前の軍部が主張した「自衛戦争」なるものを、日本国憲法は国際法の考え方に沿って、認めない。吉田の回答はごく原則的なもので、何らおかしなところがない。しかしそれは国際法上の自衛権の否定とは、全く違う。
戦前・戦中の日本の軍部が主張した「国家防衛権」や「国家の正当防衛権」なるものは、いずれも国際法に存在しない概念だ。「交戦権」や「自衛戦争」も同様である。吉田が否定したのは、国際法に存在しないそうした概念を振り回し、現代国際法では認められない行為が許されるかのような詭弁を使うことであって、国際法上の自衛権を否定したわけではない。
そもそも国際法では認められていない概念を、ドイツ国法学の擬人法的な「国家は生きる有機体で、自然人と同じような権利義務の主体だ」といった考え方で強引に採用しようとするから、「自衛戦争」といった奇妙な概念を認める否か、という押し問答が生まれる。混乱は、戦前にプロイセンに留学した者たちが学界を寡占的に支配し、ドイツ国法学に沿った憲法理論があたかも人類普遍の真理であるかのように思い込みがちだったところから、生まれてきている。つまり学者たちの陰謀あるいは誤解の所産でしかないのである(参考記事:「東大名誉教授が掲げる『憲法学者最強説』のウソ」)