優子と木下の結婚は少女にとって“苦界”の入口だった
81年3月、木下は有田市に生まれた。地元の県立高校を中退後、東京の文化服装学院の服飾科に入学。当時の同級生が証言する。
「彼はSAというパンクロックバンドにハマり、下北沢のライブハウスに出入りしていましたが、シャツを縫って仕上げるなどの授業の課題がこなせず、1年弱で中退。地元でバンド活動をしていると聞いていた」
木下に転機が訪れたのは15年夏のことだ。
〈一番近くで応援してくれる人が出来たって事がめちゃくちゃ嬉しいです〉
優子との入籍を友人にSNSでそう報告。約2年後、娘をもうけると、優子は心桜さんを引き取り4人で暮らし始める。だが、それは少女にとってネグレクトに次ぐ“苦界”の入口だった。
「心桜さんは『妹の世話をしなくちゃいけなくなったから』って、中1からは不登校でしたね。一度、妹を電気カーペットで低温火傷させそうになり、親に怒られて『ハンガーで殴られた』と言っていました」(心桜さんの同級生)
死亡前は歩けないほど衰弱
だが、優子は義父である木下の父に対しては、献身的な一面も見せていた。
「僕が大動脈解離で入院しとったとき、彼女は下着を洗って持ってきてくれた。でも、カレー事件のことも、心桜という子がいることも知らんかった」(義父)
前出の社会部記者が事件の今後について解説する。
「心桜さんは全身に多数の痣があり、死亡前は歩けないほど衰弱していた。木下は『嘘をつくから暴力を振るっていた』と供述。県警は約4年前から夫婦で心桜さんを虐待していたと見ており、優子も容疑者死亡のまま書類送検する方針です」
木下は妻と娘二人の死後、立件されないと信じ、日常生活を送っていたという。